手を広げすぎて微妙な感じになってきたので、一旦やることを整理したい。
まず時間的な問題としては、2-3月を一つのまとまった期間として使い潰してみたい。4月以降に何が出来るかは大学の授業次第ということもあるので、またそのうち考えればいい。
2-3月で完結できるようなプロジェクトを立てると、周りの人と予定を合わせて進めるということもできる。まあ4月以降も授業さえ気にしなければ続けられるかもしれないが、忙しい人も多いので恐らくなかなか簡単にはいかないだろう。
前の記事 みたいな単発でコンパクトにおさまる記事をいくつか出していくスタイルがいいんだけど、いかんせん頭の中だけでは壮大な学習目標ばかり立てていて、地に足着かんので、やっぱり確実な見通しがほしい。
どういう勉強をするか
やることとしては、語学が最優先かと思っていたが、4月になると再履修クラスだなんだのカリキュラムと教科書が与えられるので、それに合わせて勉強するのがまあ単位取得の面においてもスケジュール維持の面においても確実だろう。
逆にプログラミングは授業でもやることはないし、自分で目標までルーティーンを組まないとやってられないので、2-3月はそれを優先すべきなのではないか。
とりあえず学習課題としては、某所から以下のものをサジェストしていただいた。
edX Courses | View all online courses on edX.org
Python については、なんと Microsoft が提供しているようなので、内容的にも信頼できるだろう。たぶん。
日本語だと ドットインストール https://dotinstall.com にアカウントは作ったものの、途中から有料になったりして、煩わしさもあるので放置していた。こちらも詰まったらチェックすることもあるだろう。
体系性、スケジュール管理、ルーティーン……ブログをつけはじめた当初からこのようなワードを念頭においている、実現できるかはともかく。
結局のところ、今までバラバラの学習なら並の大学生程度にはやってきたのだ。自負というか意地というか、つまらない話…
それはつまり、1回あたり30分から1時間程度で終わるような学習の積み重ね、ウェブ上で記事を読んだり、本を流し読みしたり、動画を見たり……クソの山。
何なら浪人の頃からダラダラとそのような生活は送ってきた。しかしまあ、元々が飽きっぽいので、それぞれはつながらない。つながりのない成果だけ並べたところで、他人から見れば価値のないおもちゃ箱と変わらないこともわかる。
クソと言わずにおもちゃの山と言い換え、それに助けられたこともなくはなかったが、所詮飲み会の場で賑やかしそれに尽き。人生を渡るためにもう少し専門技能がほしいというのが本音だ。
酒飲みだけで就労はできない。できないよね??
どういう企画を立てるか
周りの人とどういうプロジェクトを立てるかというのは中々おもしろい問題で、おもしろがっていたらいつまでも決められない。
眺める会
眺める会の様子
僕が小説書くのを喫茶店かファミレスで眺める会というのを思いついたので興味ある方はリアクションください。本当は何回かわけた方がいいと思いますがとりあえずやったことないのでまず半日ぐらいでどれぐらい書けるか試したいと思います
— yohei tabo (@yoheitabo) 2018年1月29日
なぜいま小説なのかは説明がめんどうなのでツイッターでは書きませんが現実逃避だと思ってもらえればそれで大丈夫です
— yohei tabo (@yoheitabo) 2018年1月29日
会ですが大いに盛り上がった結果、失敗(作業進捗が出ない)に終わりました。参加者には謹んで御礼を申し上げます。次回は2週間後あたりに
— yohei tabo (@yoheitabo) 2018年2月3日
眺める会は近いうちに第2回を執り行なうつもりだ。第1回の反省は多いが、結局小説が完成すればそれでよし。
さまざまな会
話を聞く限り、割と人を集めやすいのは、この眺める会や、一緒に動画や映画などをみる鑑賞会らしい。鑑賞会自体は以前から身内相手に散々やってきたので今更感がつよい。自分でやってることに飽きたら開催する、ぐらいの頻度でいいだろう。
現代詩の会
現代詩の方はそもそも周囲に熱心な読者が少なく、また僕自身人を集める意欲に欠けているので、多分動かさないだろう。
現代詩手帖 2018年2月号 から佐藤雄一 / 久谷雉「2000年代詩とはなにか?」という連載が始まった。連載は2年程度続く予定らしい。初回は、現代詩手帖 2009年4月号の特集「ゼロ年代詩のゆくえ」を振り返っていて、興味を惹かれる内容だった。
現代詩の勉強会をやるとすれば、とりあえず中尾太一を起点に、現在進行中で書かれている作品について考える、みたいな内容にするだろう。
取り組みたいのは中尾太一作品の魅力ということもあるが、前述の「ゼロ年代詩のゆくえ」や、散文「僕は韻石、君は律動」、現代詩手帖で一年間続けた新人作品の選評など、中尾太一自身の詩論を比較的に集めやすいという嬉しさもある。というか勉強会抜きにして集めると思う。
このテーマに興味がある方は一度ご連絡ください。
勉強会
歴史の方は人を集めることはできるかもしれないが、色々と考えないといけないことが多い。
最近『メタヒストリー』を読み始めたのは、そもそも大学に入ってから読んだ本が『オリエンタリズム』ぐらいしかないというところに思うところがあるだけで、「歴史学者が実証的な研究だけじゃなくて、文芸よりのレトリカルなコミュニケーションを行なっているとたのしい!」という素朴な気持ちしかない。いかがなものか。
そこまで難しくはないけど読むのが億劫な本の代表にはフーコーも含まれる(個人の感想です)ので、落ち着いた気持ちでやろうとなったならば、フーコーとかになるかもしれない。
実践的な話として、就活に関係する社会現象を自分の角度から考えて最終成果としてブログなり論文なりに仕上げる、という会も考えたが、いまいち食い付きは良くなかった。
同時代人としては就活文化よりも面白いテーマはそんなにないし、なんとなれば、まさか現行の就活文化が未来永劫続くわけもあるまいし、程度の気持ちだったが、いまいちアトラクションが足りていないらしい。要検討。
僕がイメージするものとしては、反就活デモとまでいかなくとも、就活について意見を聞かれた時に、うまい切り返しや気の利いた答えも返せないまま、「まあみんなやってるから仕方ないよね」「だいたいそういうもんだし」「やってみたらそれはそれで為になるから」とか愚にもつかない話しか出力できないであろう自分のつまらなさに甘んじることができず、変にやる気が出た話でもあった。しかしやる気がなくなると、ただ不貞寝するだけ。
進学するのかまだよくわからないけど、アメリカ史は別として、考えられる進学先は社会学系、メディア論系、図書館情報学系をイメージしているので、その辺りの基礎文献を読む会も実行できれば自分の為になる。
大学に入った頃と考え方が変わってきたのは、「つまらない会を企画してしまってつまらない人が来たらヤだな」という内輪向いたガキっぽさが抜けて、「とりあえずどんな会でもやるだけやってみましょう」という方向に切り替わってきたことだ。
- つまらない人は世にいない
- つまらないと思いたくなる人が来たら適当に関係性を歪めておもしろい感じにすればいい
- 危ない人が来たら人生経験
- つまらない会をオーガナイズしてしまったらそれをネタにできる
マイナス要素が自分のなかでなくなった。
という訳で各種企画を用意されているみなさまからのお声がけもお待ちしております。なにとぞよろしく。