スペイン語文学を読む時に備えて・ボルヘス編

スペイン語の単位はまだ6しか履修していませんが、それはそれとして読めるものを読んでいきます。*1

  

日本語でボルヘス『伝奇集』を読む場合

二つの翻訳版

(そもそも僕はボルヘスは『伝奇集』しか読んでいないので、メモを残すにしても知らないことが多いです。不正確なメモとなるかもしれませんが、また暇な時にでも一から裏を取っていきたいです)

 

ボルヘス『伝奇集』の日本語訳は二種類存在します。

 

篠田一士訳の翻訳履歴*2

  • 初訳は、集英社「世界文学全集: 20世紀の文学 34」『伝奇集・不死の人 / アルファンウイの才覚と遍歴 / 真実の山』1968年
  • 集英社「世界の文学 9」1978年 では「伝奇集」「不死の人」に加えて「汚辱の世界史」を増補。
  • それ以降、複数の文学全集シリーズに収録
  • 「筑摩世界文學大系 81」筑摩書房1984
  • ラテンアメリカの文学 1」綜合社、1984
  • 集英社ギャラリー「世界の文学」 19」集英社、1990年

篠田(綜合社、1984年)P.332 に面白い話があります。

ボルヘスは1974年に一冊本の『全集』 (Obras Competas, Emecé Editores, Buenos Aires) を刊行し、初期の三冊のエッセー集をのぞき、他の全作品を、千ページをこえる大冊本のなかに収めた。

翻訳は、この全集版を底本にした。この十年ばかりのあいだ、アメリカ人、ノーマン・トマス・ディ・ジョヴァンニの英訳がしきりと行われ、しかも、ボルヘスそのひとのお墨付きがあるものだから、なにか決定版のような印象を与えている。しかし、初版、あるいは全集版の原文とくらべた場合、書き加えを主とした異同が各所に認められ、その多くは、少なくともぼくには、改悪としか考えられない。複雑な事情があれこれ考えられるが、全集版のスペイン語版に拠ると決めれば、一応、問題はなにも起らないはずである。全集版は各作品とも、初版本を、ほとんどそのまま踏襲ししている。

なお『伝奇集』の翻訳は、すでに十数年以上もまえに出版されたが、1978年に刊行の「集英社版・世界の文学」9巻収載の折に、徹底的な手直しをほどこし、面目を一新したつもりである。新訳決定版とお考えいただいてよいかと思う。訳注は一切省いて、原注のみにした。ボルヘスの作品に訳注をつけるとすれば、パロディー、あるいは、附句をつけるようなもので、いまの場合、訳者にその余裕はない。

ちょうどこの引用の後半部分で改訳の経緯について説明されています。しかし前半部分は…… 

こちらの迷宮旅行社さんのページを見ましょう。

ボルヘス『伝奇集』第2次百科辞典第1巻(迷宮旅行社)

さて、山下さんによる発見その1。篠田はスペイン語の『全集版』を定本にしたと述べているにもかかわらず、篠田が訳した「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」には、英語版に引っ張られたとしか思えない箇所があること。そもそも「あれ篠田一士ってスペイン語の人だっけ?」と首をかしげる人は多い。さらにおもしろいのは、篠田は、実は、英語版の『伝奇集』について、《書き加えを主とした異同が各所に認められ、その多くは、少なくともぼくには、改悪としか考えられない》と非難しているのだ(今回私が借りた『伝奇集』の後書きによる)。何がどうなっているのか。

実際に「篠田が参照したテキストは何だったのか」について情報を集めて検討するのも面白いかもしれないですね。

 

鼓直訳の翻訳履歴*3

評価

この二つの翻訳版についての評価は以下の通り、色々と問題があるようです。

これはひどい

まず僕は篠田訳には目を通していないので、何とも言えません。

鼓訳については、岩波文庫版を持っているので、まあ問題があるというのがわかってしまいます。わかってしまうというか、批判的なレビューを確認してからようやく「ああ、あの時読み進めるのがダルくていまいちボルヘスのアイデアに没入しきれなかったのは、僕のせいじゃなくて、誤訳のせいにできたのか…」と思えるようになったという間抜けっぷり。

当時はスペイン語もできなかったので*4仕方ないんです。

 

で、どういう問題かっていうと、やっぱり意味の取りにくさとかが目立つ点にあるんじゃないでしょうか。よくわからないので詳しいことはこれから考えていこうと思います。

 

「バベルの図書館」冒頭部分

とりあえず、いま指摘できるミスとしては、Amazon カスタマーレビューで指摘されている次の点が挙げられます。

「バベルの図書館」の冒頭、「24つの文字(letter)」の組み合わせとなる所、「24枚の手紙の組み合わせ」となっています。これでは意味がわかりません。もう少しいい翻訳でないとボルヘスがもったいない。

(数字は24じゃなくて23が正しいんですが)調べたところ、たぶんこれはやはり誤訳だと思います。冒頭というのは「バベルの図書館」の頭に掲げられているエピグラフのことです。

 

鼓直

これによって、あなたは二十三通の手紙の変化を考えることができるだろう……。

『憂鬱症の解剖』第二部第二節第四項

 

ちなみに篠田訳(1984年)も同じく「手紙」を採用しています。

この技によって二十三通の手紙の変奏を考えられよう……

『憂鬱症の解剖』第二部第二節第四項

 

原文はこうなっています。

 By this art you may contemplate the variation of the 23 letters...

The Anatomy of Melancholy, part. 2, sect. II, mem. IV.

 

これはボルヘスが、16世紀末から17世紀にかけてのイギリス人学者ロバート・バートンの著作『憂鬱症の解剖』を引用したものらしいです。つまりオリジナルはスペイン語でなくて英語。

その『憂鬱症の解剖』の原書 The Anatomy of Melancholy はオンラインで閲覧できます。

プロジェクト・グーテンベルク版を確認すると、

By this art you may contemplate the variation of the twenty-three letters, which may be so infinitely varied, that the words complicated and deduced thence will not be contained within the compass of the firmament; ten words may be varied 40,320 several ways: by this art you may examine how many men may stand one by another in the whole superficies of the earth, some say 148,456,800,000,000, assignando singulis passum quadratum (assigning a square foot to each), how many men, supposing all the world as habitable as France, as fruitful and so long-lived, may be born in 60,000 years, and so may you demonstrate with [3362]Archimedes how many sands the mass of the whole world might contain if all sandy, if you did but first know how much a small cube as big as a mustard-seed might hold, with infinite such.  

しかし昔の人の文章は一文が長いし、ラテン語も出てくるしでヤバいですね。まあでもボルヘスが引用したくなるのもよくわかるというか。

ボルヘスがどういう気持ちでこれを引用したのかまではわかりませんが、さすがにボルヘスがこれを読み違えたということもないと思われるので(多分)、恐らくここは「23文字」で間違いないでしょう。*5

 

また文化人類学者の今福龍太も別の箇所について、鼓訳の問題点を指摘しています。

Seminario del Libro-Cuerpo 第3回 ボルヘス「バベルの図書館」を読む

今福は別の回で鼓訳『砂の本』の誤訳を指摘していますが、僕は『砂の本』も読んでいないので、これは保留付きで紹介するだけとします。

Seminario del Libro-Cuerpo 第2回 ボルヘス「砂の本」を読む

ウェブ上に存在するアマチュア翻訳

前述の迷宮旅行社さんのページで知ったんですが、山下晴代さんという方がなんと『伝奇集』の一編について、自分で翻訳しながら比較検証をしていました。

borges

これが面白い。

なんと

  • 原文
  • 山下さん訳
  • 篠田訳
  • 鼓訳
  • 英語版
  • 仏語版

を並べる徹底っぷり。

「トゥレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」を一度でも読んだことがあればめちゃくちゃおもしろいと思いますね。

 

また上で紹介した、るていさん?という方が『伝奇集』の和訳をインターネット上で公開しています。最高最高。

- Ficciones -

 

スペイン語ボルヘスを読む場合

さて、これからスペイン語で『伝奇集』を読もうという場合にどんなテキストがあるのか調べたところ、これが出てきました。

Borges esencial. Edicion Conmemorativa / Essential Borges: Commemorative Edition (Real Academia Espanola)

Real Academia Española がなんと2017年にボルヘス作品の記念版となる本を発行していたようです。

英語版の説明を引用すると

A new, commemorative edition by the Real Academia Española and the ASALE that includes the best of Jorge Luis Borges’s work.The fundamental works of the master of contemporary fiction. This volume includes the unabridged texts of Ficciones and El Aleph, two of his most representative narrative works, as well as a selection of his poems and essays. A beautiful, pure, and original work, written in a bare style but with the precision of a scalpel, and with great evocative power and symbolic weight.  

とのことで、『伝奇集』『エル・アレフ(不死の人)』の他にも色々と面白い内容が盛り込まれているようで、めっちゃ良さそう。

つーかボルヘスって著作権切れてないのに2002円で買えるのか〜〜という感動があります。

この本について、日本語で紹介してるツイートや記事が見つからなかったので、メモしました。

 

 感想

  • そもそも誤訳とか「厳密な読み」を意識せずにそのまま訳文に没入できる方が実は文学を楽しむ能力は高いのかもしれない。しかしながら、るていさんの翻訳や山下さんの比較検証に触れた結果、ただの素人一読者としても、今現在流通している状況よりもう少し広い場所でボルヘスについて考えることができるんじゃないかという感触は得ました。
  • これからハードカバーでボルヘス原書読むのか、pdf とか電書で読むのかなど色々考えられますが、とりあえずこの2017年の記念版は念頭に置いておきたいですね。

 

 

*1:卒業には8単位必要らしいです。

*2:篠田(綜合社、1984年)他参照

*3:鼓訳 PP.281-282

*4:まあ今もだけど…

*5:近代英語で用いられるアルファベットは16世紀ぐらいまでは23文字だった。また古典ラテン語のアルファベットも23文字だった。