『実用的な過去』岩波書店、2017年(読書メモ)

ヘイドン・ホワイト 著、上村忠男 監訳『実用的な過去』岩波書店、2017年

『メタヒストリー』よりも先に『実用的な過去』と『歴史の喩法』に取り掛かるといいことがあるんじゃないかという気がしたけど、別にそんなことはなかった。

序言

第1章 実用的な過去

第2章 真実と環境──ホロコーストについて(何かを語りうるとして)何が正しく語りうるのか──

第3章 歴史的な出来事

第4章 コンテクスト主義と歴史的理解

第5章 歴史的言述と文学理論

後記

【付録】歴史的真実、違和、不信

【監訳者解説】ホロコーストをどう表象するか──「実用的な過去」の見地から──

監訳者あとがき

人名索引

 

さてここで、章題だけだと内容を推測しづらいので、各節の冒頭一文を抜き出してみる。

第1章 実用的な過去

エピグラフ フィクションとは、歴史の抑圧された他者である。──ミシェル・ド・セルトー

 

第1節 W. G. ゼーバルトの「小説」である『アウステルリッツ』の冒頭付近で、ナレーターは、この作品のタイトルの由来にもなっている主人公「ジャック・アウステルリッツ」を紹介する。

第2節 まさにここにおいて、わたしは「実用的な過去」という主題に辿りついたのである。

第3節 では、実用的な過去とは何か。

第4節 ここで、歴史叙述と同じくらい古く、同じくらいに尊重されてきた叙述の実践がもつ多様な側面に対して、批判的な反省を加えてみてもよいだろう。

第5節 この「歴史的な過去」と「実用的な過去」の区分は、近代の専門的な歴史家による過去へのアプローチと、素人や他の学問分野の実践家が日常生活での判断や決断などの基盤とするために、「経験の空間」(コゼレック)として「過去」を持ち出し、想起し、利用しようとするやり方とのあいだに、違いをつけるうえでも役に立つ。

第6節 ところで、歴史哲学は──いくらそれが予言的で、未来予測的で、黙示的であろうとも──、一般的には、「ストレートな歴史学」と呼ばれるものに対抗する第二のものを目指していたわけではなかった。

第7節 しかし、歴史家によって構築された過去と歴史哲学者によって構築された過去という区別は、近代西洋の学問文化をとくに悩ませてきたある関係について、洞察を与えてくれるように思われる。

第8節 もちろん、それと同じ頃、歴史研究の専門家は、自分たち自身の新たなる正統性を見いだし、「唯一の過去」の公的な管理人へと変貌しつつあった。

第9節 しかし、以上のことは、わたしたちが現代の人文科学における歴史学の地位を理解するうえで、どんな意味があるだろうか。

 第2章 真実と環境──ホロコーストについて(何かを語りうるとして)何が正しく語りうるのか──

第1節 実在する世界──過去、現在、未来のいずれの世界であれ──についてのものであることが明白な言述に対して、「それは真実か」と問うことが不適切、無神経、あるいはまったく的外れであるのは、どのような場合であろうか。

第2節 犠牲者たちの証言の身分 status についてはあとで立ち戻ることにする。

第3節 1990年にカリフォルニア大学ロスアンジェルス校でソール・フリードランダー〔ザウル・フリートレンダー〕とウルフ・カンスタイナーが主催者となって「〈最終解決〉と表象の限界」と題する会議が開かれた。

第4節 さて、「このやり方を参考にしなさい」とか「こうしろ!」といった発話のいずれに対しても、「それは真実か」は正しい応答ではない。

第5節 このように考えると、ある発語への応答の正しさは《コンテクストに依存 context specific》したものであり、「適切さの条件 conditions of felicity」が適用される、とする言語行為 speech act 理論の領域に踏みこむことになる。

第6節 ここで、わたしがひとりの歴史家であると仮定しよう。

第7節 プリモ・レーヴィが第二次世界大戦末期にアウシュヴィッツに収容されたときの回想記は、明らかに現実の世界、具体的にはアウシュヴィッツの世界についてのものではあるけれども、「それは(歴史的に)真実か」というかたちで応答したのではいかにも不適切というほかないテクストの一例である。

第8節 締めくくろう。

 第3章 歴史的な出来事

エピグラフ 真実が生まれる過程が始まるためには、何かが起こらなければならない。すでにあるもの──既存の知の状況──は、繰り返し以上の何も生み出しはしない。真実がみずからの新しさを主張するためには、何か追加されるものがなければならない。そうした追加は偶然に委ねられている。それは前もって知らせることも、予測することもできない。今あるところのものを超えたものである。わたしはそれを出来事と呼ぶ。かくして新しい真実が現われる。というのは、追加が繰り返しに割って入るからである。──アラン・バディウ『無限の思考』

 

 第1節 主流の歴史研究の周縁部でおこなわれている最近の議論は、「歴史の外側」にいるのではなく「歴史に属している」ということが、あるいは「歴史を欠いている」のではなく「歴史を有している」ということが、どれほど現代の一部の集団的アイデンティティの追求において重要になっているかを明らかにした。

第2節 さて、一般的には、この問題について多少の知識のある人にとって、「歴史的な出来事」を定義し、歴史的な出来事と他の種類の出来事──偽りの出来事、実際には起こらなかった出来事、自然の出来事、超自然的な出来事、想像上の出来事、架空の出来事など──を区別することはさほど難しいことではない。

第3節 ここでわたしたちは、出来事に関するモダニズムの言説において定式化されたもうひとつの考えに遭遇する。

第4節 歴史の観念と歴史的な出来事のカテゴリーが発明される以前には歴史的な出来事は起こりえなかった、というのは、論理上の逆説にすぎない。

第5節 さて、「プロット plot」という言葉を出すことは、さらなる物議を醸す。

第6節 西洋哲学の原点が形成されたころ、具体的にはストア哲学の開祖であるキティオンのゼノン(前265年没)の伝説的な教えのなかで、わたしたちは「出来事」という観念が「運命」という観念と結び付けられているのに出会う。

第7節 さて、こうしたことすべては、困惑するような話かもしれない。

第4章 コンテクスト主義と歴史的理解

第1節 本章でわたしは、哲学者アーサー・ダントーに倣って、理解とはある種の「認知による説明」である、と前提してみたい。

第2節 わたしたちがいま考えているのは言葉による描写であるから、近代記号論における指標的、類像的、象徴的という区別を用いて、歴史叙述、民族誌、旅行記、伝記、証言、小説、判例集、そしてそう、哲学といった、さまざまな言述に見られる異なる種類の描写の特徴を明らかにしてみてもよいだろう。

第3節 以上の見解は妥当であるとわたしは思う。

第4節 さて、ここで「コンテクスト context」の概念が、歴史的指示対象の捕らえどころのなさがもたらす不安を効果的にやわらげるために、用いられる。

第5節 哲学者スティーヴン・ペッパーは、「コンテクスト主義」とは、西洋の形而上学と認識論の伝統のなかで哲学者や知識人たちが生み出した四つの基本的な「世界仮説」の一つであるという(残りの三つは formism 形相論、機械論、有機体論である)。

第6節 歴史的な過程 processes の描写(そして再描写)は、歴史的な構造や場所の描写よりもはるかに困難になる。

第7節 こうした困難にもかかわらず、歴史的出来事を組み合わせた物語は説得力をもって書き続けられている。

第8節 わたしは先にダントーの、「事実」とは「描写された出来事」である、という考えに触れた。

第9節 そこで、少し話を巻き戻そう。

第10節 象徴とは記号であって、そのシニフィアンは言語的、視覚的、聴覚的、または触覚的なイメージであり(たとえば円や十字の形であったり、または「円」や「十字」という言葉であったり)、そのシニフィエは、また別のイメージを指し示す。

第5章 歴史的言述と文学理論

第1節 「ホロコーストを物語る」ことは可能なのだろうか。

第2節 さて、ここでわたしが言いたいのは、ホロコーストに関するここ半世紀以上にわたる歴史叙述は過去についての少なくとも二つの相違なるとらえ方のあいだで宙づりになっていると解釈するのが妥当だろうということである。

第3節 何についてであれ、その長くて詳細な「歴史」を要約することはむずかしい。

第4節 〈最終解決〉の歴史的意味とは以上のようなものであった。

第5節 「ホロコースト」(そしてその同義語である「ショアー」「ジェノサイド」「破滅」「絶滅」など)として知られる出来事の集合は、これとは話が違う。

第6節 さて、『絶滅の歳月』におけるホロコーストについてのフリートレンダーの記述は滑らかとはとても言いがたい。

第7節 このようなことはどのようにすればなしうるのだろうか。

第8節 『絶滅の歳月』へのフリートレンダーの序文はこう結ばれている。

第9節 フリートレンダーの傑作を統轄しているイメージは概念ではなく、「絶滅」という比喩形象 figura である。

第10節 わたしがここまで述べてきたことは、「ホロコーストを物語ることはできるのか」という問いを真剣に受けとめようとするのなら、提起されるべき二つのトピックの核心にあるものである。

ナレーション、ナラティヴ、ナラティヴ化についての付記 現代の歴史家たちは「ナラティヴ」を歴史研究のなかで発掘した事実をその内容に大きな変化を及ぼすことなく移すことのできる中立的な容器ないし形式として扱いがちだ。

ここに一冊の本がある。この本の文章すべてに目を通さず、内容を推測することは可能だろうか?あるいは「本を推測させるような《読み》」とはどのようにして可能になるだろうか?

客の目を惹くように、本の表紙や帯にはセールスのための文句が書き込まれている。実際に自分で本を買うかどうか悩んだ際には、その内容を知る(推測する)ために紹介文やカスタマーレビュー、著者のインタビューなどを参考にすることもよくある。

つまり、優れた出版社に恵まれた本に限った話だが、本の外部空間にはその内容についての説明書きが書き込まれている。

 

さて、それでは本の内部には一体何が書かれているのだろうか?

例えば、多くの学術書において「目次」というのは非常に頼もしい指針になりうる。しかし目次を読んでそれで終わりというのは……まあよくある話かな?

表紙をたぐり、出てきた1ページ目だけを繰り返し読み続けて、それ以降の内容すべてを推測することを楽しみにしている人物を考え出す。恐らく狂人に近い。

しかし数ページをパラパラとまくり、飛ばし読みすることで事足れりとする、これは狂気よりももっと身近な手抜きの方法ではないだろうか。身に覚えがある。

いや飛ばし読み、意味ありげなところだけをつなぎ合わせて本の総体をイメージするというのは、それができる時点で、その本に書かれている話が読まずして既に頭のなかに入っているのではないかという自家撞着への疑念を生みかねない。有意味的にサクサクいったれやという手抜きを嫌う本は実際多いと感じる。

無意味的に読むとすれば。例えばページの頭にある文字だけを並べていくというのはあからさまに無意味だ。

どうしようもない。

しかし、各ページ冒頭の文章一行分だけを抜き出すと、風景は変わる。

これまでの全生涯、わたしは歴史と文学の関係に関心を寄せてきた。それはわたしが最初に歴史に魅

想、価値、夢想の衝突についての物語であり、弁証法的関係は事物ではなく観念のあいだでのみ成り立

歴史を扱った作品の目的は、困惑を一掃することではなくて増大させることにあるのだった。

条件についてのよくある考え方、すなわち、過去のものとなってしまった出来事、過程、制度、人物、

はっきりとした指示と直接的な知覚に開かれていることがらや、原則として実験室で条件を整えておこ

ここに、著者が想定していた筈がない、誰にとっても全く未知の意味論理を考えてしまう。役に立たない読み、一字一字を丹念に追うことに飽きすべてを投げ出す手前の解釈を試し、より自由な論理を引き出せないか。最近とにかく手抜きをしたくて仕方がないので、色々なことを考える。

 

節の冒頭一文を抜き出すところに戻ると、打って変わって、「節分け」はほとんど有意味的とも取れる編集行為だ。場合によっては、分量の調節のため、翻訳の都合上などなど、非合理的な「節分け」もありうるかもしれないが、今回の本はそこまで無駄な区切りを入れてはいない、と思う。

自分が追いたいテーマやキーワードが節の冒頭で示されていれば、そこを追うことでガイドが見えてくるということもあるかもしれないが、本の総体に迫りたいという「本来の期待」に応える行動ではない。

要するに推測なんか経ずに素直に読めばそれで終わりということなんだけど。しかし一冊一冊を素直に読んでいくというほどのやる気がない。やる気がないので横になる。

一冊の本の意味内容を把握したいという期待に焦りを覚え、実際はなんだか凄まじさ情けなさなども感じる。そんな。

「読破」と宣言したいのでなくとも、読みを完了させることを迫ってくる人というのはいる。僕にとっては教師がそうで、僕は昔から本の要約が全くできなかった。

本を読んで感想を書く。まあ読めてないにしても読めてないなりに書くことはできる。

だがしかし、要約は難しい、難しすぎる。

読みを完了させることを覚え、そして書記に関する訓練をこなせば、本の要約というのはある程度楽になるらしいが……いつもいつもダルい気分になる。マジでダルい。訓練とかしたくない。

(リフレイン)第5章第3節 何についてであれ、その長くて詳細な「歴史」を要約することはむずかしい。

絶望的にならず、手抜きをし、自分の読みを〈そのうち、いつか、未来〉へと投げ出すために、だらだら更新し続けるこのブログを立ち上げた。終わらない書記、いつまでも続く読解、予告なく更新されるメモに自身の叙情性さえ伴えばそれでいいんだが、なかなかね。

手抜きをするために新しい読みを試し続けねばならない。一冊の本を前にうなされるようにして考えた。