先行き

(これは私の話ではなく私の友人Aについての話だ。)先んじてこれからの見通しについて書いておくと、よくわからない。しかし友人Aは結局なんとかなるだろうと思う。ここに記すのはその大丈夫さ加減についての傍証いくつかだ。

ここ最近は友人Aと祇園の店で会うことが多い。店はエロ・グロ・ナンセンス、ダダ、ディズニーランド、文学と酒とソフトドリンクを愛好する21世紀人たちのために開かれている。開かれた場というのは人間の自由のために大事だと知った。友人Aから聞いた印象深い話がある。曰く、社会の医療化および情報機器の民主化が急激に進んだ弊害として、我々がこの二十年ほどの間に取りうるようになった行動群、つまりスマートフォンや PC の操作について、「行動依存」なるラベルを貼ろうとする一派がそこかしこに現れているという。なるほど、たしかに私も友人Aも十分に「スマートフォン依存」かもしれない。友人Aはスマートフォン依存症者を代表し、神聖な戦闘としてこの一派に日々いちゃもんつけ、対話に果敢に取り組み、一定の成果を得ているらしい。はあ。さて、臆見では、この医療化の進展を人類史的なスケールに拡張すると、我々の21世紀社会は啓発-依存的と思われる。であればこそ我々がだるくなった日々に綿密なスケジュール管理やタスク消化は元より、社会人として必要最低限とされる家事労働やセルフケアを放棄、いわゆるセルフ・ネグレクトを不如意に行なってしまうのは、ポストモダン的な調和に満ちた社会統合ならびに虚無い自己啓発言説へのささやかな反抗を怠惰それ自体が無意識に志向しているからではないか云々。哄笑。さて、今年に入って友人Aが大学を離れ、火星の王にならんと欲して果てしないラグナロクに出かけて以来、私共もすっかり神話的に塞ぎ込む日が増えてしまったが、馬鹿話を注入したりされたりの繰り返しからようよう活力を取り戻し、しゃあない次はこの矮小な岩座の内外でどんな活動を展開するかと、自由になってきた。友人たちも頑張ってたし、私も頑張らないと。

私の話を少し書く。そこに座っている限り何者にもなる必要のない最寄りのファミリーレストランでの停留にいまいちやる気が出ない読書を携える。やる気のない読書というのはつまり読書それ自体を目的としているのではなく、「別にここで本を読む必要ねーよなー」の微細なストレスから、年来口にしていながらものにならない手慰み、小説執筆を誘発しようとしているのだ。無駄な足掻き! ある小説の構想がいたずらに延びている。もう着想から十年近く経つ。秘すほどのアイデアでもないなと気づいたのでこのページで軽く発表したい。唐突に一人のカリスマが現代日本に立ち現れ、その人間性の強大さゆえに、幾人かが苛烈に死に、幾人かが超人的な体力と精神力、思想を獲得した新人類《怪人》と化す。怪人をめぐってさまざまな群像劇が繰り広げられるが、その展開には一個の人間の意図というものは伴わない。すべてが偶発的にすべてが非-意味的に切断されて、ただ人物と行動の描写だけが積み重なる。それではファミリーレストランの瞬間、全精力を費やして妄想を滾らせているのかというと実際そうでもない。どちらかといえば、顎周りの皮膚の弛みを指でなぞり運動不足と不摂生を思い毎日同じところから生えるのか違うところから生えるのかもわからない髭、無精髭を一本ずつ指で抜いていく、あるいは、インターネット監視業務(無給)に従事するのに忙しい。小説なぞ到底書いている暇がない。忙しい。言うてる間に、デバイスの充電切れを迎え、今日はこのぐらいにしといたるか、ええねんそのうち書いたるからな、すんませんご愛想お願いしますの和約をサイゼリヤのレジにて結ぶ。

このようにして、私たちは大丈夫になった。