一滴の運動

文章に起こすと江湖の関心を得られそうなネタが手元にぽつぽつ集まってきたが、やはり身の回りの話というもの、誰にも見られない媒体でちゃぷ貯めるに留まらずインターネッタイズしようと思うと、それなりに手を加え、脚色し、自分のストーリーに昇華する必要がある。しゅわーっ。特に安全を期すため、ここ最近複数の人に起きた出来事を統合し、一個の代替可能な人格としてまとめあげる。それはつまり鴨川からカリブ海にまで到達可能な本質的に自由な人格、一滴さん。我々の隠喩体系が虚無い内輪ネタを超えて千年後まで残ろうとするなら、普通の液体人間にこそ用事がある。
この文章で言いたいことは、何はともあれその人は生きているということである。

一滴の役割とはつまるところ、祭壇の管理であった。まず、音楽を愛する人間には音楽の殿堂を、サブカル愛する人間にはサブカル塔を打ち立ててやる。我々は物質的に不自由であるより先に、精神的に不自由であるから、それらの建築物は virtual なもので充足する。インターネットインターネットとミーミー鳴く生き物たちを尻目に、ツイッターで、インスタグラムで、ラインで我々は人間的に創造と破壊を繰り返した。我々の思想、そんなものは実在しなかったのかもしれないが、思想の一滴を流通させるべく多弁をもって任意の場所を制したことは絶対に抹消できない事実だ。多くの傷跡をインターネットアーカイブに認めることができる。同時に一滴はカルチュラル・ビルディングに住むカルチュラル・ビイイングと協働し、また時には幽霊や鬼、妖精、魑魅魍魎をそこに祀り、天地を平定した。

我々の隠喩体系と最初に書いた。祭祀を記述する言語にして、契約書や訴状の文体、学術論文のようでいて、しょうもない楽屋ネタ、典型としか言いようのないほどつまらない苦悩という重層性、すなわちスパムっぽさが我々を生き長らえさせた。詳しくは、ポストモダンとか参照のこと。いままさにどん詰まりで引きこもっている若者がいたら隠喩の体系に接続して救いたい、というメサイア・コンプレックスがある。それを実現するための一つの方法、文章を書く。絶対的に書き続ける。

別れ際に「お互い生き延びましょう」か「体調に気をつけて、お元気で」と伝えることがある。昔はこれを呪文のようなものだと思っていたが、本当のところは契約の末尾かもしれない。

卒業できなかったから困っているというより二年ぐらいかけてこの春の卒業を目指して治療をしながら週4日とか大学に通っていたのに結局副作用で家から出られなくなり大学の窓口でいまいちその話が伝わらなかったから困っていた、ということがあった。今は伝えられるようになったので困ってはいない。
前はできなかったことがどんどんできるようになるので実際これで人生に停滞感はそんなにないということは言えるし、常に同じ問題が新しい形をとって目の前に現れているだけでここに進歩はないという風にも言えると思う。
無為について言えば、生産、創造、何もしてないけどとにかく疲れた。苦痛が終わらない。風邪と妄想と憂鬱でどんどん曖昧になってる。
また、ずっと同じような一日を過ごしていた気がするし、同時にとてもとても新しいカレンダーを歩いている気もする。

2007年春。中学受験失敗、忸怩たる思い。プライド・自意識・幼い欺瞞を醸成した。「人生で頑張ったことを振り返ってください」とか聞かれると(そんなこと聞くなよ)、小学生の頃の受験勉強が一番に想起される。本当は1994年から2006年までの間に頑張ったことはいっぱいある。ひらがなを覚えたり、いろいろ。
2009年、演奏会と立山とインドが思い出される。その他、ボランティア活動。特にインドで出会った物乞いの子について考えているうつ次第に憂鬱になり、一時不登校などに陥った。どのように回復したのか覚えていない。
2010年の春は覚えてないけど自意識の戦いがあったと思う。
2011年夏、東北へとボランティア派遣される。石巻あたりで活動した。
2013年の春は出席日数ぎりぎりで高校を卒業させてもらって、大学受験浪人として河合塾に入った。夏ごろには河合塾にあまり通わなくなった。講師も生徒もあまり好かなかった。このころ、意識的に現代詩を読むようになる。
2014年、あまり覚えてないが東京や色々なところで大学受験に落ち続けた。2014年の春、まだ小説家になろうと思っていた。二度目の大学受験が失敗してもなお、自分の個性に大きな文章を書きたいのか、大きな力を得たいのか、自分の欲求についてあまりにも無知は無知のまま過ぎ去った。何本か映画を観た。
春が来る度に君に近況を報告してきた。それで毎回が毎回そうなんだけどこれからどうすればいいのか本当にわからない。新しいアイデアを待つ。天から地に一滴、やがてまた空を昇る。
2015年、大学に入った。既に二年遅れのキャリアだが、ここからさらに二周以上の遅れをとることをまだ十分に察知していない。スイングバイっつって新しい軌道を描けるよなんて慰めてくれる人もいたが、都合のいいファンタジーで紛らわせるほど扱いやすい自意識ではない。
2015年から2020年まで傷つくこともあったが概ねたのしかったと言える。この間も扱いやすい人間でいることはできなかったことは認めるが、やはりたのしかった。戦争や改元や疫病、そういった社会の変化に伍して劣らず我々も加速し続けた。しかしまあ加速しすぎたのかあるいは加速が足りていなかったのか、残念ながら道が開けていないから仕方なしアイデアの祈祷は続く。
2025年の春、仕事を辞めて半年が経っていた。
「これからどうすればいいんだろう」
「お好きなように」
また別の日には、いつでも自分で死ぬことはできると、なにかの条文を読み上げるかのような自然さで言われた。
2026年、ハバナで過ごす冬も面白いと思った。

「██さん意外と元気そうですね」と言われる。まあそれはだいたいにおいてそう。ここから苦痛と諦念が身体を追い越していくと、僕から君らに新しく液体を提供できる。血だ。