20240423

高貴な書き物は自分には書けないとして、俗っぽいものを書く訳になるのだが、実際のとこ俗物が嫌いなので、嫌いと言うと語弊があり俗物を見てああ人間がここにいるなと思えるぐらいに他人事ぐらいに距離を保てないと、ヤ、なので(嫌なので)俗性を一身に引き受けて自分のこととして書くというよりは俗物たちの歴史がいずれ宇宙の終わりまで続く壮大な何かの一部だと信じて書こう。祈りというか。

じゃあそんなこと言っとる自分自身はtestamentを書くにふさわしい人間なん? っていう疑問には、一応、資格はある、と答えたい。資格に必要なのは聖俗どっちにいるかとか、右翼か左翼かとか、勤労者か無職かということではなく、この否定文の後に続くのは、要は書き方の問題なのだと思う、という例の結論だと思った。

……ところで十年前に比べて自分は十分に幸せになったと思う。ここで思うと書いて幸せを感じていると書かないのは、十分に幸せになったのであればただちに自ら崩れ去るべきであるという激しい自己破壊衝動を抱えているからだ。酒を飲み過ぎるのも酒を飲む「途中」までは十分楽しく、そしてそんな自分は急性アルコール中毒によって速やかに破壊されるべきだと願っているのだろう。
酒よりもよっぽど上等な自己破壊のプロセスとして文章を書くことがある。過去と現在の自分を文字として提示し、価値を付けて、ぶっこわし。
ぶっ壊すと次は前よりもう少しマシな人間になっているような気がする。僕は立派な人間になりたいと思います。

「立派な人間になる」「要は書き方の問題」という繋がりそうにない二点(繋がるとすれば啓蒙主義的な文章、あるいは啓蒙主義のパロディでしかあり得ない)でしょうか。今日のところは。