註釈を記すこれから

読むに耐える文章を書きたいという思いが先行していて、内容は何でもいいと思う。自分として気がかりなのは依然として薄弱な精神と不定愁訴であるが時代は進みメンヘラ文学は不可能とまでは言わないが難しくなっている。難しいものを書くためわざわざ消耗する必要もあるまい。薄弱な精神よりも分厚く不定愁訴よりもあからさまなネタこそ求める。

書くべきものの一つに精神医学と自分の接点がある。DSM-5 を素人としてどのように読むのか。そのことが長らく脳裏を占めている。書かれた文字を読むのは好きだ。DSM-5 の本文、関連する解説、それらを踏まえた医師との面談、その結果書き出される診断書、診断書を用いた手続きが炸裂し、行き着くインターネットで粗雑なジャーゴンに浸る、というのが末路の一つ。他にも考えることはある、家族や友人との会話の中で自分を表現すること、単位修得のために取るべき各先生への連絡、経済的に安定するための努力の一環であるところの就職活動における誤魔化しのバリエーションなど。卒業できないような気もしてきたし就職活動は半年ぐらいやってないな。診断基準、診断基準の解説、診断書、処方箋と添付文書、諸々の手続き書類、ゴミみたいなジャーゴン、チャット・メール・ツイート等のメッセージ群、僕のために書かれた全ての文章を僕のために読んできた。僕においては明白な隠喩体系として眼前にあるものも他者にとっては明白ではなく、これを示すために丁寧な註釈が必要となる。軽蔑すべき内語、恥ずかしい独白の国はまったく要らない要らない。

世界は自分のために書かれた一編のテキストであると宣言すればパラノイアの謗りは免れないが、世界のうちごく一部の領域は僕のために書かれたテキストであったかもしれないと君に呟く註釈が今の僕の姿で次の神話だった。また会お。