20201126

12月25日のN響第九を聴きに東京まで行くつもりだったのを市井の感染拡大に鑑みて取り止めにした。

何日か前からI君と「生のオケ久しぶりに聴きたいですね。第九とか」「せっかくだしN響行こう」と話していたところだった。シンプルな目的にシンプルな東京旅行となるはずだった。ここで中止にした根拠というのは漠然とした勘だ。まずうちの親が「またマスクは売り切れるだろうか」と生活の不安を唱えた。次にツイッターで最近の状況について漫然と情報を仕入れた。エコーチェンバーが発生しているきらいはあるにせよ、流動的な状況に対して不完全な情報をもとにどこかの時点で何かの決断をしなくてはならない。今回は「またマスクは売り切れるだろうか」というのが契機だった。

働いていないのにN響の第九など聴いてもいいのか。この深遠な問いに対する答えをいまだ得られていない。

おまえも無職だったならば……

 

一応「せっかくだしN響行こう」のあたりでは、「じゃあそれまでにちょっくら就職活動を進めて、なんなら内定祝いとして第九を聞けるようにスケジュールを調整するか、無理でも第九を浴びたらまた活力が湧いてそれはそれで前向きになれるだろう」ぐらいの心意気があった。

心意気は今。

第九のためにドイツ語を始めようとも思った。歌詞中の単語をひとつひとつ辞書で調べ始めたところでもあった。こうつらつら書くと色々なことをやっているように思えるが、実際にはなにも成し遂げていない。

祇園某所で場所を借りてバーテンダーを再開しようかとも思っていたが、やはり感染拡大が怖くてまだ様子を見る。色々なことが浮かんでは消える、泡が弾けると同時に飛んだしぶきは毎回必ず違う形をしている。

三島由紀夫の没後50年だったらしい。潮騒以外に何を読んだか覚えていないぐらいだが、三島由紀夫vs東大全共闘は見に行った。ディレクションが非常に上手く、「いかにもよくありそうな」熱狂を唯一のエンタメ体験に加工していた。当時の映像や同時代人の証言などはそれぞれ細部に過ぎない。金閣寺新潮文庫)をパラパラ読み始めるとかなりいい文章が高い頻度で出てくる。

「何だ、吃りか。貴様も海機へ入らんか。吃りなんか、一日で叩き直してやるぞ」
私はどうしてだか、咄嗟に明瞭な返事をした。言葉はすらすらと流れ、意志とかかわりなく、あっという間に出た。
「入りません。僕は坊主になるんです」
皆はしんとした。若い英雄はうつむいて、そこらの草の茎を摘んで、口にくわえた。
「ふうん、そんならあと何年かで、俺も貴様の厄介になるわけだな」
その年はすでに太平洋戦争がはじまっていた。 (p. 9)
他人がみんな滅びなければならぬ。私が本当に太陽へ顔を向けられるためには、世界が滅びなければならぬ。…… (p. 14)

ツイッターで見かけた『不死身のフジナミ』という漫画を読むために kindle unlimited に入り直した。不死身のフジナミは名作だった。いまは『野望の王国』を読んでいる。そのほかに読み放題で光文社古典新訳文庫が読めるとわかってしばらくは継続しそうだ。

冬にしては元気、無職にしては元気。周りの人々に励まされてきた結果だろうと思う。心意気は今も前を向いている。