布団で眠る自己言及

自己言及が布団で眠っている。微睡む人の瞳を開かせて、体を起き上がらせて、語らせる。


以下、2021年のブログから。

会わなくていいから祈ってほしい。

これはそうなんだけど、それはそれとして猛烈に人に会いまくることになる。

君が今までの人生で書いたすべての文章を読みそれらを予告編として編む機会があればいつまでも僕は走り続けられるだろう(それならさー、ふらふらでもいいじゃん)と思うが、どうだろう?

既にある文章を編集するだけで食っていきたい。編集者になりたいということではなく。

「もうどこへも行けない」という声を聞いてそうか大変だったんだねーと応えながら、食べちゃう。そういう生態がある。

食べるは性的な含意ではないが、ではどういう意味かと聞かれると困る。

cut back, drop, and turn
僕においては明白な隠喩体系として眼前にあるものも他者にとっては明白ではなく、これを示すために丁寧な註釈が必要となる。軽蔑すべき内語、恥ずかしい独白の国はまったく要らない要らない。
世界のうち一部分は隠喩の国であるとしか言いようがない。これは当然のことだ。一見してわからない、飛躍、意味の簒奪、なんだって行なわれる、僕のパラダイス。
これを註釈してやらないといけない。その目的のもとこのブログは書かれている。
世界は自分のために書かれた一編のテキストであると宣言すればパラノイアの謗りは免れないが、世界のうちごく一部の領域は僕のために書かれたテキストであったかもしれないと君に呟く註釈が今の僕の姿で次の神話だった。
結構意識的に始まったこの場所も3年半以上続いている。なんでこんなことわざわざ書いたんだろうと思う文章の方が多いが、当初の目的通り記録の蓄積にはつながっているので、消す必要はない。
見返すと2019年の「先行き」、2020年の「一滴の運動」あたりから方向性が変わった。
特に一滴の運動はかなり気に入ってる文章で、今でも自己紹介代わりに人に見せることがある。
書いた当時のことはよく覚えていないが、大学の卒業がまた延期になり、就活つらいなーと思っている時期だったのではないだろうか。ステイホームが始まった時期でもあった。
ぼくの未来は来なかった。
意外や意外、感染者数が収まった現状があり、ぬるぬると僕の態度も変化している。先のことはわからない。
またなにかあれば考えが変わるかもしれない。そうなった時に話を聞いてくれると嬉しい。
また会お。

タイトルはもちろんエウレカセブンから。

文体があればそれでいいと思う。

文体だけでは商業化はできないと思われるが、どうか。

切実な炎の先端を切り取って渡してやると、それは。

かっこいいけど、ブログに書く種類のかっこよさではない。

自分の爪を見て恥ずかしいと思うように、目や歯、肌、腹などを見て恥ずかしいと感じる。
自分の声を聞いても恥ずかしいと感じる。

基本的に自分の身体を愛していない。

大量に読み書きする酒飲み存在。神話にだって出れるさ。

一ヶ月後に泥酔してモラハラを働く。

色々と音楽や本、映画の話などをするが、固有名詞は覚えていられない。楽しかったねー、って記憶だけ残る。

最近は本当に質感の話だけをしていて名辞がどんどん頭から抜けていく。

落ちるか落ちないか微妙な淵に立って絶望を覗き込んでいる人が僕の周りに数百人いる。その人たちの顔つきはみな違う。僕は見ている。

数百人というのは適当な数字だけどそこまで外してもいないと思う。

毎日友達と遊び回っていてもいずれみんなパートナーと一緒になってしまい仕事とか家庭で時間がなくなって僕と遊んでくれなくなることを思うと胸がめちゃくちゃ苦しくなるなあ!
パートナーさんも一緒に僕と遊んでくれ
パートナーを持たない生き方というのもあるので誰もが恋人作ったりするわけではないというのも重々わかってはいるが、それはそれとしてやっぱりみんな仕事とかで時間はなくなっていくんだよなあ。何もかも学生の時のようにはいかない。
基本的には歳をとっていくことを楽しんではいるが、それでも不意に寂しくなる土曜日というのがある。

何度でも読み返したい魂の叫び。早く彼女できるといいね。

個人を特定できるようにすると訴えられますよと言われたが、せっかくなので人生経験として裁判は体験してみたい。

後に考えを修正することになる。裁判はやらない方がいい。

現実を歪めて小説にするぐらいのことじゃ満足できない。現実そのものを歪める小説でありたい。世界を破壊する。まあ、芸術ってことで。

芸術無罪ではないらしいということが後にわかる。

他人の記憶になりたいという欲望は暴力的ですらある。その暴力を振るいたい。

こういう欲望が薄い人もいるらしい、ということが最近わかってきた。みんながみんな僕のようではないらしい。

空中にメモがたくさん漂っている。ファンタジーみたい。僕はそれを眺めることができる。一つ一つに何が書いてあるか、はっきりとは見えないが、それは確かに僕の文字だった。

文章を書く時に浮かぶイメージ。

たまたまいくつかの性行為があっただけで、事故のようなものだったと思う。

これは自分の体験もそうだし、他人の体験について聞いた時にも思うことで、必然的なセックスというのは、宗教行為でもなければほとんどないように思う。

怒りや絶望、悲しみなどネガティブな感情はない。ただ純粋に殺し合いがしたい。

インターネットを始めた当初からこのスタンスなので、どこからおかしくなったのかわからない。

酒を飲む自分のケアを共同体に託そうとは思わない。本音を言うと僕は一年中他人にケアしてもらいたいと願っているのだが、同時に共同体にかかる負荷にも自覚的なので、進んでケアしてもらうことができない。小さい頃の僕は酒を飲む大人をケアしたり、自分がケアされたりするような未来を望んでいた訳ではない。

このケアについての見解はねじくれていて、自分でも整理がついていない部分だ。

くれるなら一撃をくれ。今回みたいに。

一撃どころか三回もらった。無事死亡。

いくつかのキーフレーズがある。
街は生きている。川が流れている。美しい顔を見た。どうでもいい花が咲いている。もっと面白くならなければならない。結局は覚悟の問題だ。生きるのがつらい。反省している。これはまるでジェットコースターだ。続けることが大事。幸せになりたい。人と話すのは楽しい。ピース。

こういう自己引用をよくする。手癖っぽい。

張り裂けそうなほど胸が痛い。頼むから。

失恋のダメージをまだ引きずっている。

醜悪なものを見たい訳じゃない。ただ栄光に浴したいだけ。

まあまあ自分勝手な話だ。

ボトルメッセージも宇宙の原子の数と同じだけ詰めて流せば、啓示だと思う。

今書くならこの結び方は変えると思う。

口は軽い、手は重い、部屋は寒い、墓も寒かった。

実家の思い出。

一緒に来てほしかった。プリーズカムウィズミーって言った。
もうあなた/あなた方を追えない。アイドントチェイスユーって言う。

失恋でヤケになっとるね。

飲んでもなくならない湖、星の光が消えていくことにも気づかない人たち、踊らない客。

池の水全部抜くからの連想やね。


すべてわたしだった。