抜粋・中尾太一

中尾太一『現代詩文庫 203 中尾太一詩集』思潮社、2013年。

(この浜辺で時間と風と、かけっこしたら、どっちがはやいかしら
(そのあいだを銀色の鹿が駆け抜けて、きっと彼が一番さ
(時間は風に、脚をとられるのね、風は途中で、角度を変えるのね
(銀色の鹿はそれから「光る町」になるさ (p. 8)

 

「先生、わたしには何が書いてあるのか解りませんでしたけど
それはたしかにチャンピオンが書いた一行でしたよ!」 (p. 18)

 

「たしかにこのへんで、もういいのかもしれない」
ゆっくりと、トンネルの中でバスを降りていた、同時に君の性は大好きな探検家の名前になった。
「ファルコン、どっちへ抜ければ正しいんだろう」
どちらかへ歩いて僕はまた、「|光と影《dreams》」を見ていた。 (p. 32)

 

あーい、そうね、あーい、よね、夜が夜自身を越えようとしたら、きっと真っ暗のまま暖かくなるわ
「事実のみがある意味を表現することが出来る。名辞の集合にはそれができない」
でも震えることはできるわ、意味なく泣き出すことも
だからもう背中は悲しくないの (p. 35)

 

 行ってきます!
 
(真白な肺炎を走るのさ)
 
朝、傷だらけの器官に風が吹き込んでヒューヒューと鳴る、無垢だ
うずくまった空っぽの回転、馬の破れた腹の中を、そっと覗いたら、そのはるか以前、境界線をずたずたになって走っていた血筋だ
そこでいつも不機嫌な君の怨念を殺してもいなかった! (p. 74)
 
既死感をぜつぼうの果てで破って(だから破ったんだよ!)、たんたんと珈琲を沸かす
新しい、力の、浜辺の炎
それから燃えながら海へ入っていった
(やわな生誕だ、ちがうのさ、血を消しに行ったのさ) (p. 74)
 
真白なハイウェイ、聖者の中で、僕は一番若い方だ (p. 75)
 
二人の間には関係しかない、関係はこじれる、純粋になる (p. 87)

 

ところで僕はものを食べない怪物である。 (p. 115)

 

僕が一行を書いていた時刻、あるいは行変えという行為の合間の時刻において、僕はほとんど神話的といってもいい物語や幻想が自分の内から無際限に発生していくのを感じていた。 (p. 117)

 

反復になるがこの短い物語には僕と「君」との遅速に委ねられないコミュニケーションがある。しかしこの対話(の態はなしていないが)の黙している方の光速こそが伝達的なのだと考える。食べない怪物の、それ自体が矛盾である在り方に即して、それを正しいと僕は考える。もし「食べない怪物」といういい方を比喩としてあざ笑うものがあれば僕はその人間を許さない。その人間がここに書かれてある事柄、つまり契約、離別、不在、友、友情、運命、死、そして詩、形式、夢を嘲笑するに、それは等しいからだ。 (p. 118)

 

悲しいことばかりだ。他人の修辞や構文のざわめきを扇動する「詩人」も悲しすぎる。そこには「詩人」=エロジジイの年少者に対する吐き気を催す卑猥な手つき、身体の搾取の手つきしか見えない(和合亮一はここから脱したのか?)。地区諸王(ちくしょう)!、と松本圭二の罵倒文の澱みのなさを僕は憎悪し、その清々しさに苦しみつつ、自分の生を肯定するためならここに何でも書いてやればいいとさえ思っている。その権利を詩を書く資格を真に持つものに与えてやりたい。脈絡、順序、脈絡、順序、何のことはない、すべて詩を書く人間が「くだらない詩人」になるための教養過程ではないか。もうみんな降りろ。僕が「詩人」になってやるから。 (p. 120)

 

力なくいうが、僕がその中で生きたい想像や構文はまだまだたくさんある。 (p. 136)

 

中尾太一『a note of faith ア・ノート・オブ・フェイス』思潮社、2014年。

通分、通訳、そうした媒介を伴わない精神と行為の剝き出しの文通が詩だった
そんな書き物を必要としている人がいる (p. 7)

 

未だ覚醒しない名前の裏で、誰もが見知らぬ手を繋いでいた
あほじゃない、ばかじゃない、俺たちは差し出された手を握っただけ
忘却よりも強い自己を生きているだけ
俺たちは blow して
俺たちの kingu を覚醒させる
俺たちの queeen を抱きしめる
ただ強く、覚醒させたいだけ
抱きしめていたいだけ (p. 32)

 

「もう書けないオレ」を欠いたこの世界
その軽快なリズムを体に流し、動いている愛の機械
一人のものでしかない行く末に見たい
君と年代記を書いた時代 (p. 42)

 

労働を経た歳月は、style への信念で書くテキストをようやく眠らせ始めるだろう (p. 54)

 

あと数年したら言葉の発破もはじけて、僕たちは黙っていても話をすることができるだろう
感じないかい、今、その端緒についているということを
だからみんな、見えないものが見えるという
しかし迷っている逐語の亡霊の首を羽交い絞めして
僕はこの目で確かめられるリリックであることを誓う
この可能性が切り開く明日を僕は信じている (p. 67)

 

絶望の book jam から幾片か拾ったクソな詩が僕の先生だ
誰にも恩を着せられる覚えはないのだ
絶望の book jam は足音と共に西からやってくる
僕の詩が負っている、死ねない光、死ねない詩人 (p. 74)

 

ああ、詩を書くのは楽しいことだ
画用紙に一気に書き上げた百行でオージャスをぶっ飛ばす、ラウンジをぶっ飛ばす
ハートランドをぶっ飛ばす、ベーグルを全部食べる (p. 75)

 

僕は詩篇を一日で書き上げることができる早口の悪魔だ (p. 77)

 

中尾太一ナウシカアの花の色と、〇七年の風の束』書肆子午線、2018年。

「子供は一人だけ欲しい、星の子供で僕の言うことを完璧に理解する
 大きくなったら前線で僕の言葉を補う」 (p. 37)

 

おれは隣に座ってくれる人を待っていた (p. 43)

 

時間や約束に対するそれぞれの認識の中には「いつも始まりでしかない、これが最後であるという時代の感覚」が
山小屋のようにぽつんと建っている
きみはぼくのところにちょうど着いたとおもったはずだ、ぼくもそうだ
だからきみはぼくに語りかけるし、ぼくはきみに話すことを毎夜、伸びていく雲みたいに考えている (p. 84)

 

中尾太一詩篇パパパ・ロビンソン』思潮社、2020年。

告白すると「韻律」のことがよくわからない。わかっているヒトヒトがいないのも知っている。自分の傍に一個の形式を担保するような構文がないと、「韻律」も「抒情」も「詩」も、すべてあやふやなものだ。その構文の構築が詩論になるが、その基底に「詩」があるかぎり、詩論が書かれる場は限定される。またその構文を自分以外のものに由来を持たせれば倫理や関係は発生しない。遠目で読み取った「責任」という漢字はいくらでも融通の利く神学としてなにをも拘束しない。ヒトヒトは「し」ではなく、「そ」を書いて、その指の横滑りの遊戯性に自由を見る、ぼんやりとした夢だった。 (p. 45)

 

一行とは二行のこと。それだけを詩論として、アールの肉体はかろうじて維持されている。 (p. 46)

 

場から場へ、韻律から韻律へ。どこかでやめなくてはいけない旅だ。場から場へ、音から音へ、流れから流れへ。どこかでやめなくては、と思う。
何度も、橋を渡った。循環、などと、知ったようなことをいうな。なつかしい「詩の技法」が一続きのセンテンスとして僕らに触れていることと、そんなものは生き延びるために役に立たないということをどうしたらおなじリュックに入れることができるか。できると僕は答える。できるだけ「詩の技法」を使って生きたいと結論する。
韻律と数式とわけのわからないガスのかたまりがコトバになるとは思っていない。だから「あ」から書き始めて「お」で終われといってくれればいい。もしくは始まりと終わりがある詩を書けといってくれればいい。それなら発声する器官から器官へ、ひゅーひゅー鳴きながらアールのような生き物が最後の走りを見せてくれる。
僕は詩を読みながら思う。否定の果てで生きていても、それらがまだコトバを使えるなら、きっと僕はだれとも手をつなぐことはできないと。今は、もうコトバを使えない「だれか」を紙の上に映し出そうとしている。記憶自体はないくせに、「思いだす」ことができる「だれか」。「昨日」それじたいである「だれか」。
「きみ」というコトバの「ふくみ」をじっさい見られるまでになった「瞳」の物語をいつか書きたいと思って、「詩」から「方法」と「語彙」を借りっぱなしでいる。こんなにも感謝している。 (p. 130-131)