デイヴィッド・マークソン『ウィトゲンシュタインの愛人』国書刊行会、2020年。
最初の頃、私は時々、道に伝言を残した。 (p. 7)
心から離れた時間。たまたまこのフレーズを使ったけれど、今までこの言葉をちゃんと理解したことがないような気がする。
心から離れた時間とは”正気を失っていた時期”ということなのか、それとも単に”記憶から消えた時間”ということか。
けれどもいずれにせよ、狂気についてはほとんど疑う余地がなかった。 (p. 8)
そんなふうに、言葉はしばしば正確さを欠くことに私は気付いた。 (p. 14)
でも、まだ荷物が残っているかもしれない。荷物は捨てたという確信があるにもかかわらず。
荷物みたいなもの。頭の中に残された荷物。つまり、かつて知っていたことの残骸。 (p. 17)
実はここ数年、折に触れて本を読んだ。特に頭がおかしくなったときはたくさん読書をした。 (p. 18)
探索。ああ、私はどれほど必死に探したことか。
探索をやめたのがいつか、私は覚えていない。 (p. 22)
果てしない無の中をさまよいながら。たまに、頭が正常なとき、私は詩的になることがった。物事を自然と詩的に考える時期が本当にあった。 (p. 39)
以前、自分がギリシアの戯曲を声に出して読むのを聞いていたとき、台詞の一部がまるでウィリアム・シェイクスピアの影響下で書かれているように感じられた。
本当のことを言うと、自分で言っていて意味の分からないことを言うというこの新しい習慣は、私にとって特に楽しいものではない。 (p. 74)
既にどこかで言ったかもしれないが、荷物の大部分は自分のものでないような気がする。 (p. 93)
よく考えたら、頭がおかしかった時期とそうでない時期を大体いつも区別できるのは興味深い事実だと思う。 (p. 103)
ところで、誰それがこうしたことをした、あるいは言ったと私が言うとき、本当に言いたいのはもちろん、誰それがそうした、あるいは言ったと言われているということだ。 (p. 110)
いずれにせよ、こうした話はすべて突き詰めると、私以外にも多くの人が一定の荷物を捨てられなかったことを意味するのではないか。 (p. 111)
ついでながら、私はもう鬱ではない。改めて考えると、そもそも鬱ではなかった。ただ、気分がすぐれなかっただけだ。 (p. 112)
もっと切実なところで私は、どうして頭が時々あちこちに飛ぶのかを理解したい。そのためなら本当に何でもするだろう。 (p. 120)
何かをしたという記憶がないという事実は決して、そうしなかったという証拠にはならない気がする。 (p. 139)
探索を続けていたとき、私は別の人間を見つけようとしていたのか、それとも、孤独に耐えられなかっただけか。
いずれにせよ、結局のところ、人がいつも窓から中を覗いたり、外を見たりしているというのは、本の主題としてそれほどばかげていない。 (p. 172-173)
人間の思考はどうしてこんなふうにあちこちに飛ぶのかを理解するためなら、私はほとんど何でもするだろう。 (p. 216)
しかしながら、私たちの誰であれ、何を本当に知っていると言えるのか。 (p. 295)
それはつまり、小説を書く人は、書くことがないときにしか小説を書かないということだ。
実際、小説を書く人の多くは間違いなく、きわめて真剣な思いを持っている。 (p. 298)
ある種の孤独は別の孤独とは異なる。最後に彼女が結論するのはそれだけのことだ。 (p. 301)
そして私は今なぜか、私が書いている事柄の多くはしばしばそれら自体から等距離にあるという奇妙な感覚を覚えている。 (p. 302)
私は以前、有名になるという夢を持っていた。
その頃もほぼずっと孤独だった。
城はこちら。そう書いた標識があったに違いない。
この海岸に誰かが住んでいる。 (p. 313)