ペンネームをつけるときに友人からアドバイスをもらいつつ考えたことがある。
ペンネームは別に何個あってもいいものなので、今後も必要に応じて考える機会があるかもしれない。その時のために記録しておく。
- 影響元
- 目指す表現
- 無名性
- 顕名性(特にググラビリティの高低、エゴサーチのしやすさ)
- 偶然性(辞書などを適当に引いて出てきた単語に因む、知人に名付けてもらう)
- 一般的な日本人名のバリアントにするのか、そこから外していくのか
- ひらがな、カタカナ、漢字、英数字、記号の割合をどうするか
- あ行またはや行・わ行をイニシャルとするのか(書店や図書館での並び順を意識して)
影響元として好きな作家や作品のパロディを入れたいとは思うが、存命の人の場合、命名元が炎上したりすると目も当てられないことになるので、影響を受けるなら評価が定まった故人の方が安心だろう(故人の評価にした所で新しい証言や資料が出てくることで変わってしまう恐れはあるが)。
目指す表現は難しい。名前をつける前から自分の作品について理解している作家がどれほどいるだろうか。
名前をつけてしまった後に、その名前でならどのような作品が書けるかという視点が生まれる。
こういった発想はペソア的であるらしい。フェルナンド・ペソアは81の異名を駆使し、異なる作風の文章を著したとのことだ。ペソアの場合、作品が先だったのか名前が先だったのか寡聞にして知らない。今後調べてみたい。
無名性は自分の身を守るために重要だ。特に作品を作ることで社会的地位や評価を失う恐れがあるのなら、隠しておく必要があるだろう。
顕名性は無名性と矛盾するところがある。作品がどういった読者にリーチしたのか調べたいという気持ちは強い。個性的な名前であれば、感想を拾いやすくなる。
偶然性はある種の閃きをもたらす。ここまでいかに命名をコントロールするかということに腐心してきたが、自分の名前は自分ではどうしようもないというのも一種の現実かもしれない。
日本人名というのは世界的にはそれなりの個性を持つ。日本人らしい名前の響きが実在する、とまで言えるかはわからないが。
ペンネームをつける瞬間だけは自分のエスニシティやナショナリティ、性別から完全に自由になれるので、外国人名、あるいは現代人ではあり得ないような名前をつける、というのも一つの選択肢だろう。
文字種の割合や書店・図書館での並び順というのはテクニカルな話だと思うが、ある局面で非常に重要なことだろう。
特に文字種に関しては、ある文芸雑誌に載る名前のバリエーションというのは限られているということを知った。あんまりふざけた名前できっちりした文芸誌に載ってる作家というのは少なそうだ。ちゃんと実力を身につければ、名前ぐらいでは弾かれなくなるのかもしれないが。