人と会うのは大事ではない

2020年頃に「人と直接会うのが大事」という風潮が起こり、それに対して「いやオンライン化によって助かったから」という反論も見られた。
私は後者の立場だ。

2020年以前の話をすると、そもそも会う人がおらず二年を孤独の内に過ごした浪人時代や、体調が悪く外に出られない、人に会えない時期に、テキストベースのSNSにずいぶん助けられた。
オンライン化は自分のために必然的に起きたことだった。

2020年以降は、通話やラジオコンテンツの聴取が日常的になる。
大学の講義をオンラインで受講するのは大変苦痛だったが、いわゆる対面授業に出た所で苦痛は変わらなかったから、通学のコストを考慮すると、オンライン授業の方がマシだった。

2020年頃には友人が世界各地に散らばっていったので、友人関係の維持のためにもオンライン化は必須だった。

「身内の通話に篭ると見知らぬ他者に出会う偶発性に乏しくなる」というのは十分ありうるが、これもTwitterスペースを異常な頻度で繰り返すなど、試行錯誤したつもりだ。
そもそもいわゆる対面にした所で、公共の場所以外で出会う他者は、どこかしら自分と共通の友人や文化を持つ者であって、まったく縁がない訳ではない。

Twitterスペースをやらなくなった理由は複数あるが、結局縁のない人と話すのに倦んでしまったというのはある。この倦怠は一時的なものであると感じているのでそのいずれ然るべき時にTwitterスペース以外のテクノロジーを導入するであろう。

チャットにせよ通話にせよ、忌避感を示す人は私の友人にも複数いる。
否定するつもりはない。
しかし忌避感はやがて技術の進歩が解決するのではないかと素朴に楽観的な期待を抱いている。
メディアの進化史において、忌避感や抵抗感は強力に次の手段を誘引してきたのだから。

対面だからといって人間は自由に振る舞える訳ではない。
メディアを介さなかったとしても、コードというのは必ず存在する。
そもそも自分の思う通りに動かない肉体を抱えている時点で。

肉を捨てたい。にくをもとめているのに。

人間の自由が信じられていた時代に公共圏というものが考案されたが、その後人文社会学者以外の誰が公共圏を志向したのか。

かつて公共圏と呼ばれたものを、その名前を使わずして志向しているのは、分散型SNSの精神にあると、2023年の私は思う。
巨大化しすぎたプラットフォーマーに対するアンチテーゼは、微視的には各地に独裁者が営むサーバーを発生させるだろうが、巨視的には均衡の取れた世界になっていくのではないか。
楽観的な観測。

視点を変えて、大都市圏に住む人々の無自覚な傲慢さは常に気に入らない。
これから死んでいく地方にも私と同じ魂を持った人間はいる。
魂を救いに行くには物理的な移動手段ではなく(私は乗り物が嫌いなので)、インターネットが必要だった。
大都市に場所を用意した所で僻地の障害者は救えない。

同じ場所にいなくても、同じ時代に存在しなくても、言語や言語に近いものに対する信仰が私と私の同類どもを救う。
そのような聖典を書いている。

インターネットに聖堂を建てた後はインターネットにまつろわぬ人々を救いに行く。当然。

その時が来たら直接会おう。