人に会わなければ

historydiary.hatenablog.com

2020年頃に「人と直接会うのが大事」という風潮が起こり、それに対して「いやオンライン化によって助かったから」という反論も見られた。
私は後者の立場だ。

2023年1月24日におけるCOVID-19の状況というのは、5類引き下げが既定路線として報じられたタイミングだ。既に政府広報や各種統計、調査は信じるに足りず、自分の感覚と噂だけが頼りになっている。
私は噂の中でもとりわけ医療従事者の声を重視している。カタストロフとまでいくかはわからないが、2020年上半期を上回るような閉塞感と停滞感がこれから世を覆う、と医療従事者の噂から判断した。
人に会うことはさらにリスクとなる。
人に会わなければ、少なくとも後遺症と死は避けられる。

2020年から2021年にかけて、「人に会うのが大事」と掲げて集会を開き、感染者を増やしたクラスタがいた。そのようなクラスタが現れることは容易に想像がついた。私は単に軽蔑していた。そのようなクラスタにとって感染者が続出し、「コロナはただの風邪である」ことを再確認したのは、身内の結束を高める武勇伝として機能した。私は軽蔑していた。

5類引き下げが集会を加速させるぐらいで済めば距離を取ればいいだけなので(公衆衛生的にはよくないが)許容できるが、これからマスクを外せとか集会に来いとか声をかけられやすくなることを考えると嫌気がさす。

なお閉塞感を生むのはCOVID-19に限らない。これから戦争が起こる。断言できるので断言する。これから戦争が起こる。
前線にいるにせよ銃後にいるにせよ、インターネット遮断の日がとても重要だ。
そうなってくると人に会うのが大事じゃないとか言っている場合ではなく、信頼できる人の住所を取得したり、集会に行くことが重要になるだろう。

2020年以前の話をすると、そもそも会う人がおらず二年を孤独の内に過ごした浪人時代や、体調が悪く外に出られない、人に会えない時期に、テキストベースのSNSにずいぶん助けられた。
オンライン化は自分のために必然的に起きたことだった。

2020年以降は、通話やラジオコンテンツの聴取が日常的になる。
大学の講義をオンラインで受講するのは大変苦痛だったが、いわゆる対面授業に出た所で苦痛は変わらなかったから、通学のコストを考慮すると、オンライン授業の方がマシだった。

2020年頃には友人が世界各地に散らばっていったので、友人関係の維持のためにもオンライン化は必須だった。

「身内の通話に篭ると見知らぬ他者に出会う偶発性に乏しくなる」というのは十分ありうるが、これもTwitterスペースを異常な頻度で繰り返すなど、試行錯誤したつもりだ。
そもそもいわゆる対面にした所で、公共の場所以外で出会う他者は、どこかしら自分と共通の友人や文化を持つ者であって、まったく縁がない訳ではない。

Twitterスペースをやらなくなった理由は複数あるが、結局縁のない人と話すのに倦んでしまったというのはある。この倦怠は一時的なものであると感じているのでそのいずれ然るべき時にTwitterスペース以外のテクノロジーを導入するであろう。

チャットにせよ通話にせよ、忌避感を示す人は私の友人にも複数いる。
否定するつもりはない。
しかし忌避感はやがて技術の進歩が解決するのではないかと素朴に楽観的な期待を抱いている。
メディアの進化史において、忌避感や抵抗感は強力に次の手段を誘引してきたのだから。

対面だからといって人間は自由に振る舞える訳ではない。
メディアを介さなかったとしても、コードというのは必ず存在する。
そもそも自分の思う通りに動かない肉体を抱えている時点で。

肉を捨てたい。にくをもとめているのに。

人間の自由が信じられていた時代に公共圏というものが考案されたが、その後人文社会学者以外の誰が公共圏を志向したのか。

かつて公共圏と呼ばれたものを、その名前を使わずして志向しているのは、分散型SNSの精神にあると、2023年の私は思う。
巨大化しすぎたプラットフォーマーに対するアンチテーゼは、微視的には各地に独裁者が営むサーバーを発生させるだろうが、巨視的には均衡の取れた世界になっていくのではないか。
楽観的な観測。

視点を変えて、大都市圏に住む人々の無自覚な傲慢さは常に気に入らない。
これから死んでいく地方にも私と同じ魂を持った人間はいる。
魂を救いに行くには物理的な移動手段ではなく(私は乗り物が嫌いなので)、インターネットが必要だった。
大都市に場所を用意した所で僻地の障害者は救えない。

同じ場所にいなくても、同じ時代に存在しなくても、言語や言語に近いものに対する信仰が私と私の同類どもを救う。
そのような聖典を書いている。

インターネットに聖堂を建てた後はインターネットにまつろわぬ人々を救いに行く。当然。

その時が来たら直接会おう。

昨日の記事に対して二人からコメントをもらった。


Tのコメント
オンラインで救われる人がいるので、オンラインは大事だと思う。

ただ、「オンライン化によって助かったから」→「人と会うのは大事ではない」のだとしたら、それはよくわからない。

自分自身はオンラインに救われたという感覚があまりなく、むしろゆるやかに首を絞められてきたという実感がある。

オンラインの速度についていけない。加速したくない。加速できない。これは傲慢ですか。

傲慢ではないと思う。結局速度についていけないという事態すら、いずれ速度を自在にコントロールできる技術ができたら問題にならなくなると思う。人類はまだオンラインチャットに触れ始めた赤子だから、成長すれば今よりも緩い速度のコミュニケーションが生まれるだろう。今はまだその時ではない。


Tのコメント続き
少なくとも、生存のために人と会わざるを得ない人間との関係においては、人と会うのが大事だと思っている。

昨日のブログが「生存のために人と会わざるを得ない人間」を外していたのは認めないといけない。
私の考えでは「医療福祉従事者の負担を社会として減らさなければならない」「そのためには生存のために人と会う必要のない人間は人間関係を諦めなければならない」という道徳になっている。
エッセンシャルワーカーという言葉が生まれた。エッセンシャルワーカーとそれ以外の間に格差を作ってはならないという倫理と、全人類が蟄居すべきだという超越的な道徳のせめぎ合いだと思う。
生存のために人と会わざるを得ない人間を、医療福祉の対象と従事者に限るのか、というのが次の論点となる。そこで私は、たかだか精神の問題ならインターネットで解決しておけばよい、という立場になる。


Tのコメント続き
そして、生存のために人と会わざるを得ない人間の状況を技術が解決する、という可能性があるとして、それが救いだとは思えない。

2019年までの世界では「仕事は人と人が顔を合わせなければならない」ということが広く信じられていた。その規範が徹底的に破壊されたことで救われた人間は間違いなくいる。


Tのコメント続き
知的障害者の孤独をオンラインが救う未来を想像することが、いまのところ僕にはできない。

知的障害者とテクノロジーについては知見が足りていないので現時点ではコメントができない。今は私と関わりのある知的障害者がいないので関係から考えることができていない。


Tのコメント続き
関係の維持については、オンラインがあってもなくても維持したい関係がそこにあったという印象がある。

個人的にはむしろ、オンラインでしか繋がることのできない関係の多くは、その維持がめんどうで、疎遠になってしまった。

私も年々過去の人間関係が終わっており、昔の知り合いが気に入らない投稿をしていたら躊躇なくフォローを外すようになりました。我々がともに生き延びたらいずれ再び巡り会うこともあるだろう。


Tのコメント続き
対面が自由だとは思わない。

むしろ、対面よりオンラインの方が自由だと感じる。ただ、自由であるが故に、嘘が嘘として存在し得る。

対面にも嘘は存在するけれど、同時にそこには嘘をつく身体があって、それは信ずるに足ると感じる。

私のような心身を生きていると身体と心は未分化で、私の文字列と音声だって身体だと思う。


Mのコメント
わたしもどちらかというとオフラインの方に希望を見出してるところがあるけど、██さんのブログの最後に、その時がきたら直接会おうという文があったので、そこがよかった

こういうのは何はなくとも書いておくもので、自分の可能性を自分一人に閉じないように工夫しています。


Mのコメント続き
直接の対面じゃなくてもいいやって昔は思ってたけど最近は変わってきたな 仕事辞めて移動すべき場所が減ったのとかが大きいのかな あと斎藤環のオープンダイアローグの本読んだのにも結構影響受けたかも

なるほど。オープンダイアローグがコロナ禍で被った影響についても斎藤環がどこかで書いていたと思うが、ちゃんとは読めていない。


昨日から今日にかけて色々考えてみたが、僕が固執している部分は2013年頃の一人で呻いていた期間であり、その頃から回復も成長もしていない、という風に自分を捉えているのだと思う。僕にとっての人生とは一人でベッドの上で苦しむ時間のことであり、それ以外の楽しい時間はすべて浅い眠りの中で見る夢なのだと思う。
ブログをはじめとした文章はボトルメッセージであり、2013年の自分と同じ人間に届けばいいなと思っている。