長い波の快楽

苦しみや快楽を味わうのにかかる時間が年々広がっていく。十代の頃には一日の間に喜怒哀楽が目まぐるしく変遷していったが、今は精々一つの感情を一ヶ月かけて経験するということが普通になってきている。睡眠や食事といった次元の欲求ですら数日かけて帳尻が合えばもうなんでもいいと思う。唯一、服薬は半日ぐらいの短いスパンで如実に効果が出るので厳密な間隔の上に摂っている。

刹那的な映像美や瞬間ごとの会話の妙を追求しているのは変わりないが、その上でもこの人からこの言葉を聞くのは十年後でいいか、という納得をすることがある。人間関係に対する楽観が行き過ぎており、能天気ですらある。長期的な損得を見据えてということではなく、快楽の漸進的変化のカーブ半径が大きければ大きいほど嬉しい、ということになる。千年かけて育つ生物がいるならそいつだけ眺めて過ごすのがいい。

我々は一つの運命に向かって歩き続けているだけで、その長大な道のりをいっとき分かち合っているにすぎない、という信念が影響しているのだろう。このような信念がいつ生まれたのかはっきりしない。中高生の頃に社会奉仕事業としてさまざまなボランティアに取り組んだ時だろうか。もしくは『風の歌を聴け』あたりの村上春樹が纏う根源的な切なさに憧れたのか。


ぐずぐずに停滞しきった人間が歩き出す瞬間がとても好きだ。そのためにはぐだぐだしてる人らのために尽くすことを厭ってはいられない。長い周期で鳴り続ける全く未知のグルーヴを発明するためには同じぐらい長い既知のビートか沈黙が必要だ、といつかそんなことがわかる文章になりたい。