『文体の舵をとれ』練習問題(3)「追加問題」問2

書いてみた長い文が、単に接続詞や読点でつなげただけで構文が簡単になっているなら、今度は変則的な節や言葉遣いをいくらか用いてみよう(ヘンリー・ジェイムズを参照のこと)。
すでに試みたあとなら、ダーシなどを駆使してもっと〈ほとばしる〉文を書いてみよう──さあ、あふれ出させろ!

 

 タイミングっていうのはあると思うし、この場合は、演奏において何が本質的か、という話題に行き着きがちな我々が過ごしている長いようで短いような時間の中で僕の主張と言えば、ステージの上に立つ段になると、あれが吹けないやらこれが回らないやらいう技術的なミスや、肉体が動かない! 精神が止まらない! との緊張ですら問題ではなくなり、精神じゃあなく、楽器の機械的な運動や筋肉や関節の軋みから生み出されるリアルなサウンドのみが実在で、他の要素や感情の大渦などはもはや価値がないということをよくよく語り明かしたあのファミリーレストラン、具体的にはサイゼリヤの日々から今日に至るまで繰り返し同じことを口にし続けているという自覚がむしろ僕をオーケストラからスーッと遠ざけたと言えなくもなく、理論偏重で音痴とか最悪、最悪な奏者で周りにも迷惑をかけたなと昔のDVDを見返すたびに思いを馳せ、だってトラウマだってあるし、でもいまや音楽とは関係のない経済生活を送っているのだから、反省の持って行き場はないのだから、そもそもの話である楽器の機械的な運動や肉体のざわめきといったリアリティを僕自身が信じ切っておらず、あれなんでそういうこと言ったんだっけ、逆にオーケストラ在籍当時はエモーションについて考え、囚われ、表現以前の稚拙な領域に留まることを自ずから望んでいたような気さえするのだが、本番の映像以外に記録は残っておらず、確かめる術もないまま、そして今からだって書こうと思えば書けるのだが、そうは言っても新しい考えを書き留めようという気力もなく、ただ口がそのように回るからという理由のみで、演奏について語り続けるこの主観を意外と気に入ってるのかもしれないなとかなんとか言っちゃって、そしてさらに意外なことに音楽を聞くのが前よりもさらに楽しくなっていって、あはは、これは悪いことじゃないんじゃないかと自分を受け入れることさえ可能になる夜に、昼に、久しぶりに楽器を取り出してみて、演奏用の筋肉の衰えを実感しながらも、いや全盛期も大したことなかったよと自分にツッコミを入れるも、サウンドを信じることやエモーションの拒絶を前よりもできるようになっていることに驚き、脳やらがざわめき、それにしても楽器ケースを開けるだけでも十年が報われるような気がするので、この楽器とは一生離れられないなと諦めて、新しいリードと楽譜を買った。