20220820

今月に入ってからほとんど外出していないし人とも話していない。
家で何をしているかというとSNSを見て動画を見て後は寝ている。
元気があれば自分が今まで慣れ親しんできた映画や漫画、小説を見返して、もう好きではないものとまだ好きなものを選り分ける。

数年に一度、限りなく死に近づく時期が来る。
好んでそうなっているのではなく、心身は強い抵抗を示す。とにかく死は恐ろしい。

恐怖ゆえに研ぎ澄まされるものがある。死に近づくことで価値観が崩壊し、より純粋な言葉が生まれる。一人で行なっている、危険な宗教体験。

村上春樹ダンス・ダンス・ダンスの冒頭では、猫が死にそれを埋葬することを契機として主人公が社会復帰を始める。この作品の主人公は風の歌を聴け以来同じ人物だったのだが、この猫の死と社会復帰を経て、それまでの作品とは異なる人物へと生まれ変わる。台詞回しや経歴は引き継いでいるのだが、どこか雰囲気が異なる。

遠い太鼓でノルウェイの森が爆発的にヒットした時に村上春樹が社会についていけずdepressionのような状態に陥ったことも思い出す。

あるいはそのノルウェイの森の本文に埋め込まれている、死は生と対をなすものではなく、生そのものにあらかじめ含まれているとかいう文章。登場人物一人一人の運命についてよく考える。

(以上は記憶を探って書いたので、実際の事実関係やニュアンスからすると正確ではないかもしれない。)

言葉は研ぎ澄まされるかもしれないが、物事を継続的に考える集中力は死の恐怖を前にすると当然損なわれる。なので文章はまだ書けていない。
膨大な量の観念が脳を行き来する。それぞれについて「これは小説のネタになるか?」という判定を瞬間的に下す。ほとんど全ては使えないゴミだ。使えそうなアイデアに集中したいが、死の恐怖の前に思考が萎縮し、というか、自分は到底これを書ききれないだろうなと思い込んで、わざわざ捨てる。ほとんどすべてが虚無へと帰す。運が良ければ「より純粋な言葉」として留めておける。
そのような一ヶ月だった。

ネタが思いつかないということはなくて、あらゆるものがネタとして見えてきて、そのすべてを自分の意志で忘却しないと書き始められないという状態に耐えられない。

ここまで書いて、自分は到底書ききれないという無力感が本当にキツいということがよくわかった。

無力感、無価値感に囚われている。そこから脱却しようという意欲が起きない。項垂れるだけ。