multiverse baby

平たい大地をむにむにと触って何時間も潰しているのは、まだそれが珍しく感じられるほどこの地上に馴染んでいない生命だから。
大人になること、成長とは物珍しいものがどんどん減っていってただの手遊びの時間が減っていくことだと既に知っている。
地上についてよく知らないまま、ここにある人間一個の運命について既に知っているのは矛盾ではなく、単に別の世界から転生してきたからだ。
魔法が存在しない世界からやってきたから、人間が手の平から炎を出すその瞬間がただただ面白くてずっと繰り返している。周りの人間が呆れ返っているにも関わらず執拗に炎を見ている。熱を感じ、匂いを感じる。
あるいは、別の世界では、人類は宇宙に進出しており、生まれてから死ぬまでを低重力で漂っている訳で、当然そこでは無意味に漂う話だけで何時間も潰している。
別の世界では仏陀に会ったし、また別の世界では神から託宣を受け、他でもあらゆる生命があらゆる形になって流転する様を火の鳥になって見ていた。しかし意味のある活動はなにもせず、ただぼーっとしているだけだ。
ぐるぐると転生していく中で元の世界に戻ってきた。意外と魂は摩耗せず、元の世界の大地をむにむにと触る幼児期に戻ってこれた。
途方もない経験をしていると思う。それぞれの世界について雄弁に語ることだってできるし、その気になれば世界と世界を繋ぐことだってできるだろう。ここにある生命らしきなにかにはそれぐらいの可能性がある。
しかし、そのような気力はない。これは長く歪んだ時の流れによって魂が摩耗したということではなく、初めからそのような気力しか持っていなかったということだ。
地面をむにむにと触るだけ。今度の生はその程度で十分愉快だ。

カプセル

僕の思いの丈を錠剤に閉じ込めて君に与えるのがかつての目標だった。必要な時に服用してほしかった。
今はどうだろう。思いとか僕のとか、あまり興味がなくなったかもしれない。
君だって大事ではないよ。

いくつかのアイデアを必要な文字数で「君」に服用させることにはまだ少しばかりの執着があり、でも言ったように「君」そのものへの執着自体は虚妄だったと思うし簡単に捨て去りたい、という訳でほとんど捨て去ったけど未だに夢に見る「君」とか色々な人の、人らしき影が擦れる音、夢から覚める、もう「君」ではないな、「だれか」でいいのか、いやむしろ「君ら」にあててかな、まだ文章を用意していてカプセルっていうの錠剤っていうの注射その他の形態で向かわせる情報がある、と信じなければもはや自分ひとりの存続すら危ういほど無気力に陥り、まだ文章を用意しているだけなんだと僕に言い聞かせる、この「僕」に、元々「君」にあてたすべての文章が「僕」のために書かれたものだったと今更ながら認めよう、だれに対して? まあ僕でも君でもない、街や星でもない、犬ぐらい、犬ぐらいなら許せそうな気がするから強いて言うなら犬に誓って、犬なんて飼ったことないけど、キミヘノシューチャクを捨て去ったと少し前に書いたけどこれは大体ほんとう、犬に誓って、いつか千年後に君と僕と友達らの血族があまさず滅んだその地上と天空に文字列それ自体が何の意味もなく蒐集されるその時空を目指してインパクトを与える、「この例題なんか二十一世紀日本人って感じで面白いよね」と笑われながら語学の教科書に収録されるぐらいのインパクト、そう我々ながら、やり遂げる先が僕には見えてくる、またしても虚妄だが、いいんだよ書ければ、そして読めれば、意味をこえて、千年をこえて文章があれば。

リニアな

書くことで前に進みたい訳だから、書くことで後ろに進むようなことがあってはならない。ていうかどっちが前かわかんねえよ、まあそれはそうかもしれないけど言い換えると、書く前と書いた後を比べて多少なりとも立派な人間になっていることかな。僕が思う立派な人間というのはよく捨てる人間だと思う。語りに要らないものを捨てて、世を捨てて、人生そのものを捨てて、それでも残ったものを仕方なく肯定する。
とりあえず書く、の前にそもそも書かなくていい出来事をできるだけ忘れる必要がある。ほとんどすべての出来事は別に書かなくていい。僕は捨てる。誰か他の人が拾ったらいいと思う。
書けないなら書かないのが正しい。書けないのは苦しいが、書くことで後ろに進んでしまうぐらいなら甘んじて受け入れるべきである。

pity

「ゴミみたいな」って僕が書く時、pityを込めている。ゴミみたいな作品、ゴミみたいな発言、ゴミみたいな人……結局僕と繋がっている連中だっていう意識があるからせめてもの餞としてゴミみたいなって形容して殺す、インターネットに放流、悼んでやる。
いずれここも「ゴミみたいなブログ」として葬ってほしい。

……部屋を片付けてくれて、ありがとう。

運命的に身体が衰えて、意識だけが残った。自分がなりたい文字列やなりたくない文字列が瞬間、頭を駆け巡るけど、わざわざ書き留めるほどじゃない。その一つ一つをアンタに伝えるほどじゃない。

肉体の一日に閉じこもり、自分の部屋を全世界として、スマートフォンという窓からインターネットの光を取り込む。それが今の僕の全てだ。

いかんともしがたい現在の苦境について、すべてが自明に思える。また死が非常に近く感じられて、抗う気力が湧かない。という状況を運命と呼んでみたが、あまりギリシア的な感じはしない。どちらかといえばゆるい仏教のよう?

界隈、馴れ合い、連帯、わいわい……
結局僕には無理でした。
一人で文章を書くことにします。

それでは。

20220820

今月に入ってからほとんど外出していないし人とも話していない。
家で何をしているかというとSNSを見て動画を見て後は寝ている。
元気があれば自分が今まで慣れ親しんできた映画や漫画、小説を見返して、もう好きではないものとまだ好きなものを選り分ける。

数年に一度、限りなく死に近づく時期が来る。
好んでそうなっているのではなく、心身は強い抵抗を示す。とにかく死は恐ろしい。

恐怖ゆえに研ぎ澄まされるものがある。死に近づくことで価値観が崩壊し、より純粋な言葉が生まれる。一人で行なっている、危険な宗教体験。

村上春樹ダンス・ダンス・ダンスの冒頭では、猫が死にそれを埋葬することを契機として主人公が社会復帰を始める。この作品の主人公は風の歌を聴け以来同じ人物だったのだが、この猫の死と社会復帰を経て、それまでの作品とは異なる人物へと生まれ変わる。台詞回しや経歴は引き継いでいるのだが、どこか雰囲気が異なる。

遠い太鼓でノルウェイの森が爆発的にヒットした時に村上春樹が社会についていけずdepressionのような状態に陥ったことも思い出す。

あるいはそのノルウェイの森の本文に埋め込まれている、死は生と対をなすものではなく、生そのものにあらかじめ含まれているとかいう文章。登場人物一人一人の運命についてよく考える。

(以上は記憶を探って書いたので、実際の事実関係やニュアンスからすると正確ではないかもしれない。)

言葉は研ぎ澄まされるかもしれないが、物事を継続的に考える集中力は死の恐怖を前にすると当然損なわれる。なので文章はまだ書けていない。
膨大な量の観念が脳を行き来する。それぞれについて「これは小説のネタになるか?」という判定を瞬間的に下す。ほとんど全ては使えないゴミだ。使えそうなアイデアに集中したいが、死の恐怖の前に思考が萎縮し、というか、自分は到底これを書ききれないだろうなと思い込んで、わざわざ捨てる。ほとんどすべてが虚無へと帰す。運が良ければ「より純粋な言葉」として留めておける。
そのような一ヶ月だった。

ネタが思いつかないということはなくて、あらゆるものがネタとして見えてきて、そのすべてを自分の意志で忘却しないと書き始められないという状態に耐えられない。

ここまで書いて、自分は到底書ききれないという無力感が本当にキツいということがよくわかった。

無力感、無価値感に囚われている。そこから脱却しようという意欲が起きない。項垂れるだけ。

TLは砂浜のようでいて

TLは砂浜のようでいて、ゆるいビーチに滞在している時にこそ許容できる一粒一粒が、帰宅後家の中、布団の中にまで持って帰られると耐え難い不快感を催す。ツイートは私の身体に密着しないでほしい。綺麗めの瓶に詰めて持って帰った砂なら思い出にもなるかもしれない。しかしそれも数年の時を経ると部屋の容量を圧迫するゴミのように感じられ、廃棄するだろう。私はそういうことをする。私は砂浜、のごく一部が欲しかったのではない。

幼い頃に砂浜で死体を目撃していたら私の空想も何かしら変わっただろうか。

私は砂浜が欲しかったのではなかった。

私はどこにも行きたくない。

布団の中で見る夢には普通に限りがあって眠れば眠るほど面白いものを見られるわけではない。むしろ起きた時に嫌な思いをすることが増えるとああ睡眠に依存しているなと思う。

起きている時に見える夢は多少面白い。たとえば、砂浜に死体が転がっている。黄金の草原から私を呼ぶ声がする。暗い都市の巨大な高架の下で車が通るのを待つ深夜。馬に乗る。

起きていても寝ていても、もう会わない人たちが責め立ててくる。なんであんなことをしたのかと。

あああああああ、と打ち込むけど誤魔化しにもならない。

どこからどこまでが自分の意志だったのかを考える。いやこれは考えているとは言えない。ただ記憶の表層をただ撫でているだけ。

どこからどこまでが砂浜だったのかを考える。考えてもわからないし、実際に見てもわからない。手を動かして数える、という愚直な手段すら到底通用しない。

家に上がる前に落とした砂の一粒の方が自分だったから、私は布団に還らんかった。

十年前の自分への手紙

十年をかけて何が変わったかといえば文体だと思う。この手紙にしたって、十年前のあなたが読めば「自分が書いたような気もするし書いた記憶はなく、書ける感じもしない」ぐらいのものとして読める。自分の文章として読むことも可能だし、そうでないと否定することもできる。自分と文章を結びつける回路が存在しないので、読むうちあなたは壊れる。
本当は、自分が書いたものはすべて、読む自分を徹底的に破壊する危険物でなければならない。

痛いほどに、って十年前なら書いたっけ、痛いほどに他者を求めているお前ですが、お前を抱きしめる者は現れない。

痛いほどに、って書いたでしょうたぶん十年前なら。痛みや孤独によって駆動し文章を出力し続ける限りお前は救われない。読み手と書き手を結びつける回路はそんなに貧弱なものであってはならない。

十年間にわたって私は船を漕ぎ続けたが、何本の波を乗り越えたのかまったく覚えていない。重要なのは、身体が船の中にあるか、外に放り出されるかの二択だった。
意外にもまだ私の身体は船の中にある。
十年間、僕は夥しいほどの自分を乗り越えてきた。私は波となって船を揺らしもしたし、船となって時空を真っ直ぐに貫いたりもした。私は揺れという概念、または、夜であり、MacBookだった。

坊や、坊や。

声が聞こえる方に、手紙の活字がばらばらにほつれて、手紙の活字が声が聞こえたのはここかなと思った方に、手紙の活字が逃げていった。

十年前のことはよく覚えているような気もするけど、あまり記憶には残っていない。大体十年前に僕は私として俺が始めたんですよ。ぐらいのことなら言えるんだけどね。
私が過去を知らなくても、十年という歳月が私をよく知っているから、それを読めば何事もわかる。
髭、贅肉、肌荒れ、その他不調が刻まれた身体を読めば、ああ確かにこの人は十年を生きたんだ、ということがわかる。

大体十年前の自分に何を言えば喜ばれて何を言えば嫌われるか大体わかってるから、別に何も言いたくはないですね。
強いて言えば?

まあ別に死んでもいいよ。
そう僕が許さなくて誰が許すというのか。

王座退屈

重要な話が目の前で行われているのはわかるが、今すぐにでも逃げ出したい。
もう聞いていたくない。

逃避先のイメージがあるわけではない。

子供の頃、よく遊びに行ったビーチはどうだろうか。
暖かくて、風が吹いて、潮の味と香りがして……

二つ思い出す。
一つ、今はビーチで過ごすにはふさわしくない冬の真っ只中であること。
一つ、ビーチは近年埋め立てられ住宅用地として中階層に貸し与えられていること。

意思決定者にしてくれと誰が頼んだ?
呪われた王座に座ることを誰が望んだ?

兄弟姉妹はうまくやっているらしい。
自分だけが、自分だけが耐えられない。
この身に流れる血の温度に吐き気を催す。

そして時が来る。

「うむ。よきにはからえ」

聖なる言葉である。これを国の隅々まで知らせること。

知らない人と話す

複数人の会話、それもよく知らない人を交えた会合の進め方について。

様々なやり方があると思う。

会合の冒頭に参加者それぞれの紹介を行うのは、普通は効果的だ。それぞれの立場を強制的に開示することで、不安感・警戒心を和らげることができる。ただし、参加者の個人情報や特性を一律に公開するというのはパターナリスティックである。また、冒頭に置かれた情報を参加者全員がずっと覚え続けているかというと、きっとそうではない(話している途中に「あれ、この人の名前はなんだっけ」となることはよくある)ので、紹介のタイミングをあえてズラしたり、何度も繰り返すということも考えられる。

僕は参加者一人一人に「公平に」話をしてもらうことを好む。「均等に」とはいかないのは、人によって話せる知識、話せない話題が異なるので、話を振っても仕方がない場合があるからだ。無論それは素人には喋らせないということを意味するのではなく、素人には素人なりの意見があるので、それを話してもらうこともままある。

一方で参加者の中に僕個人が苦手とする人がいた場合、その人が喋りにくそうな話題を広げたり、その人の話す番が回る前に切り替えたりすることがある。一方的に権力を用いる場合、相手との力関係によって勝敗が決する。

参加者一人一人に公平に話してもらうことができたなら、僕という人間が積極的に喋る動機は薄くなる。苦手な人間から発言権を奪う時以外は大人しくしている、ということすらある。

複数人の話の聞き取りを苦手とする参加者がいた場合は、その人にあわせたペースで進める。時には話題の再確認や要約、参加者の立場の明示なども行い、苦手意識を軽減してもらう。

喋りたくなさそうな人がいる時は細心の注意を払う。特にその人が会合に積極的に参加しているのではなく、消極的に参加している場合は、配慮を行うことが重要になる。まずは喋りたくない人もその場にいていいと意識させること。次にその人が楽に喋れそうな話題を探すこと。そしてそのような配慮は影の内に行ってあからさまに示さないこと。

「自分が好きなだけ話せばいい」「相手に好きなだけ喋らせればいい」ということでは決してない。むしろ逆だ。「自分も他人も好きに話してはいけない。主導権をめぐる権力闘争を行いながらも最終的には融和を目指す」ことに理想がある。

具体的には、複数人で話すのが苦手な人や、消極的に参加していた人に、今日は話せてよかったと思ってもらえたら、誇るべき勝利だと思う。

よりにもよって暗闇

大丈夫ですかと聞かれるけど十年ぐらいずっと大丈夫じゃないんや。かなわんて。
説明ならツイートした。だいたいそれがすべて。

恋人もいない僕は道連れを求めてるわけじゃない。それぞれがそれぞれの行程を進んでいって、時折光や音で信号を送り合うことしかできない、っていう認識やから誰もここに来なくていい。

誰も来ない暗闇に座るのは寂しい。

夢とか生活が中断されて、飯もあんま食わんくて、酒は飲んで、TwitterYouTubeをずっと眺め続けるけど大した刺激はない。暗闇。

中断されたものがまた再開するのも億劫や。どうせまたどこかで行き詰まるんやろ。

まったく希望がないわけではないけど、すがるほど確かでもないし。

あんまよくないっすね。まあ。