タイムラインの後

幼い頃は父母に手を引かれて、今はひとりで一本道を歩いている。始まりがなく終わりもない道なので、思うがままに行った来たりをしていて、どこに辿り着くでもない。時間は一方向に流れず、自分の心身の衰え以外に経過時間を知る由がない。

一本道にはあらゆる知性が行き交っている。すれ違いざまに会釈をしているのだが、もっと愛想よくした方がいいらしい。しかしまあすれ違いには都度、ぶつかりが生じるリスクがあって、恐怖のあまり身がすくんでいる。もちろんこの道における挨拶はぶつかりを防ぐための知恵を意味しているのでよりよい振る舞いをこの道で学ぶ意味はあるだろう。

一本道のどこに存在するのかはある程度自由が保障されている、というのは二十一世紀の空気だ。中世だとなかなかこうはいかなかった。東京にいようが大阪にいようが森の中にいようが荒野を彷徨おうが、ある程度は大丈夫。
そしてどこでもいいということはどうでもいいということかと思って積極的に場所を選ぶのはやめた。人生の優先事項に父母の死を看取るというのがあるのでいずれは地元でしばらく過ごすこともあるだろうが、それだって始末を終えればあとは自由だ。

一本道を眺めるのに無限の時間を費やせば、いずれはあらゆる知性を観測できるだろう。その後何が言えるようになるのかについては仏教に蓄積があろう。
あるいは石ころ一つを眺めるだけで悉有仏性を示すことも可能かもしれない。しかし石ころ一つの人生か……石ころ一つの人生ね……

僕が人にブログの執筆を勧めているのは、あなたはタイムラインで流されていいような人ではないですよ、ということを言っている。長期的な視野に立てばブログだっていずれは滅びるのだからどこに書こうが変わらないということも一応は言えるが、しかしそれでも数年越しに我々のやりとりをこのブログかあなたのブログで発見した第三者がいたとしてその人はずいぶんと勇気づけられるだろう。「この道を歩いた人がかつていた」

この記事を読んだあなたは、あなたの思う一本道について書くことが既に可能になった。

僕がそもそも小説とか言い出したのも、ここにある言葉が滅びる期限を少しでも延ばすための努力だった。徒労かもしれない。それでも構わない。僕もあなたも言葉も滅びるが道だけは残る。